鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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ッパの工業化や都市化に伴う神経症的な社会風潮に抗うためでもあったと指摘している(注21)。すなわち個人的、社会的双方の位相において、新印象派からマティスへと続く平和と幸福の芸術は、時代の病理と吹き荒れる前衛の嵐に対する「静謐なるレジスタンス」であったのかもしれない。3 「均衡」のプラグマティズムこの「レジスタンス」には、現代の私たちのアートシーンにもつながる、核となる転換がある。それは新印象派やマティスが志向する芸術は、もはや感性的な美の問題(beauté)ではなく、「健康」や「平和」という行為論的な幸福の問題(bien-être)に焦点を合わせている点である。哲学者丹木博一も論ずるように、「健康」には、「人間全体の統合の快復としての救いの意味が認められる」(注22)。言い換えるなら、新印象派やマティスの目指す芸術は、見る者の「生きる」という複雑で複合的な「行為」を十全で満ち足りたものにするという一つの重大な使命があるのだ。そこで鍵となるのが「均衡」の概念である。先の引用文でマティスは自らの「精神安定剤としての芸術」を「均衡の芸術(un art d’équilibre)」と称しているが、新印象派の画家たちもまた、しばしば「均衡」の概念を使って、自らの美学を説明する。例えばシニャックは主著『ウジェーヌ・ドラクロワから新印象派まで』(1899)において「分割の手法が、純粋な要素の視覚混合によって、明度と着色の最大化を確かにするだけでは十分ではない。さらにコントラスト、グラデーション、発光の法則に従ったこれらの要素の配分と均衡44をもってのみ、分割の手法は作品の総合的な調和を実現できる」と主張する(注23)。またシャルル・アングランは、新印象派の同朋であるマクシミリアン・リュスへの1909年の手紙の中で「均衡は宇宙の法である」と記している(注24)。彼らが目指す「均衡」は、造形的には、新印象派やフォーヴが頻繁に用いた補色対比のなかに表現されているだろう。周知のように新印象派の画家たちは、画面の中で補色対比を多用しただけでなく、額縁を本体の補色で塗ることを盛んに試みていたし(注25)、マティスは後年補色対比を避けるものの(注26)、例えば《豪奢、静寂、逸楽》(1904-05)〔図1〕や《生きる喜び》(1905-06)〔図3〕などの初期作品では、青と黄、緑と赤などの補色を積極的に対置している。しかし彼らの希求する「均衡」の芸術は、決してそのような造形面に留まりえるものではない。「均衡équilibre」は比較的新しい概念で、16世紀半ばの物理学の発展に伴い登場した。現在と同様、この言葉は当初から相対する二つ以上の力のバランスを意味し、物理学や心理学の分野で、数学的な量化(quantification)を行う際に、使用されてきた― 4 ―プラグマティック

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