現実のアテナイの葬制に関する考古学的研究は、アテナイ西北の市門ディピュロン門周辺に位置した公共墓地、通称ケラメイコス墓地の発掘成果に基づいている。同地の発掘を指揮したキュブラーや、墓碑研究の第一人者であるヨハンセンらによれば、アテナイのケラメイコス墓域の墓標陶器は、前10世紀から前8世紀にかけて、次のように展開した〔図3〕(注4)。地上には、石板などの石の墓標と、陶器の組み合わせからなるモニュメントが設置され、墓穴には火葬の灰とともに骨灰陶器が収められた。地上の陶器の底には穴が穿たれており、墓参者が献酒を行うと、それが陶器を通じて地下にしみわたり、骨灰陶器に届くよう設置されていたものと想定される。しかし、地上のモニュメントと地下の骨灰陶器の位置関係は、時代を下るにつれて次第に変化して行く。両者の間隔は遠のき、位置もずれていく一方、地上のモニュメントは大型化する傾向が見受けられる。前8世紀の時点では、墓標陶器の底に穴が確認される例もあり、献酒の儀礼が継続されていたと考えられる。しかし、このような一連の変化は、献酒などの儀礼の役割を担っていた墓標陶器が、モニュメントとしての役割を強めていったことを示唆していると言えるであろう。続く前7世紀の墓標陶器については、底穴は確認されなくなる。葬礼習慣そのものが前7世紀に変化を見せ、この頃には墓穴の中で遺体を荼毘に付す、いわゆる一次火葬がとられるようになる。壮麗な儀式を伴う火葬の終了後、墓穴の上には大きな墳丘が築かれ、その上に墓標が立てられるようになった。この時期の墓標に底穴が無くなること、墓標が大きな墳丘の上に立てられるようになることなどから、ウィットリやホービー=ニールセンは、前7世紀に入るとアッティカでは墓の外観が強調され始め、墓は他者への顕示の場としての性質が強まっていくと指摘している(注5)。3 墓標陶器─解釈の基準と課題冒頭で述べた通り、本研究ではホービー=ニールセンが1996年の論考の註で取り上げた29点の陶器について、筆者がそれぞれの器形、A面、B面の図像、陶器の大きさ、底穴の有無、出土状況を調査し一覧表を作成した。ここでホービー=ニールセンの墓標陶器の選定基準と、それについての筆者自身の立場を明らかにしておきたい。ホービー=ニールセンは、装飾の配置に明瞭な正面性が看取されることを基準に、この29点を墓標であった可能性のある陶器として註で列挙している。ただし、前7世紀の代表的作例である《エレウシスのアンフォラ》に触れ、これが子供の甕棺として使用されていた事実により、正面性の強い装飾が必ずしも墓標陶器の特徴とは言えないと留保している(注6)。しかしこの点に関して、筆者は異なる見解に至っている。つまり、― 139 ―
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