研 究 者:北里大学 非常勤講師 星 聖 子はじめにまたヴェネツィアにおいては、1470年から75年頃にかけ、ジョヴァンニ・ベッリーニあるいはアントネッロ・ダ・メッシーナの寄与により、パーラ形式の聖母と聖人たちを描いた祭壇画が導入され、以降制作されるヴェネツィア祭壇画をこの形式が席巻することとなった(注3)。このようなパーラ形式の祭壇画において主題となるのは、「受胎告知」や「聖母被昇天」といった説話場面、そして多翼祭壇画において、独立したパネルに描かれていた聖人像を単一画面に集わせた「聖母子と聖人たち」あるいは聖母子像を含まない「聖人たち」である。本論では、パーラ形式の成立以降、多くの祭壇画に表されてきた「聖母子と聖人たち」に着目する。単一画面形式の祭壇画は、フィレンツェにおいて初期の展開を見たが、その後、イタリアの各地へと伝播し、特にヴェネツィアにおいては、祭壇画の建築枠と画中建築との遠近法的整合性をもったイルージョニスティックな形式が隆盛した。同じパーラ形式の「聖母子と聖人たち」の祭壇画でありながら、両都市の様式には明らかな相違が見られる。ここでは、15、16世紀に数多く制作されたこのタイプの祭壇画を総体として観察し、フィレンツェ、ヴェネツィアの祭壇画を特徴付ける要素を抽出することにより、祭壇画形式の展開について考察する。1.祭壇画形式の統計的分析手法前述の研究目的の手段として、本論ではデータベースを用いた統計的分析を採用し15、16世紀のイタリアにおける祭壇画の展開は、「ポリプティクからパーラへ」という大きな流れとして、多くの先行研究がなされてきた。ゴシック式の複雑な枠に、個別のパネルに描かれた聖人像を組み込んだ多翼祭壇画から、単一画面に全ての聖人を描き込むパーラ(注1)への変遷は、15世紀初頭のイタリアにはじまる、絵画面を「世界に開かれた窓」と捉えるアルベルティ的世界観の教会堂装飾における表出と考えることができよう。先行研究においては、1430年代以降、ブルネレスキ、ミケロッツォら建築家が主導したフィレンツェの教会堂装飾において、古代風の枠を持つ単一画面の祭壇画が導入されたことが指摘されている(注2)。― 146 ―⑭15、16世紀における単一画面形式祭壇画の形式分析─「高い玉座」の導入とヴェネツィア祭壇画の展開をめぐって─
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