鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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4、移ろいやすい均衡のうちに4444444444444444444444444444(注27)。その点で、「継ぎ目」や「関節」を意味するギリシャ語の「harmós」から派生した古典的な「調和harmonie」の概念とは区別されねばならない(注28)。「harmonie」はピュタゴラス派以来、比例の概念と共に発展し、古典哲学の用語を使うならば、かたち(形相)を区切ることを成立の契機としている。それに対し「均衡」は物事の力や量(質料)が問題であり、結果的に「harmonie」のもつ硬直したフォルマリズムを逸脱する契機をもつ。そのことは新印象派、マティスともに支持していたアナーキズムの政治思想に如実に見て取れる。シニャック、ピサロをはじめとする新印象派画家たちの無政府主義者への傾倒は先行研究ですでに詳らかにされているが(注29)、マティスもまた1900年代初頭、警察に捕えられたアナーキストたちに密かに資金援助をしていた(注30)。その無政府主義の始祖であるピエール=ジョセフ・プルードンは、ピサロが周囲に熟読を勧めていた『革命における正義』(1858)のなかで、「神は超越的でも形而上学的でもなく、均衡44が擬人化されたものにほかならない」と主張する(注31)。さらに無政府主義の中核的人物であるピーター・クロポトキンは、広く読まれたリーフレット『無政府共産主義:その哲学と理想』のなかで、次のように言う。「すでに確立された形式があり、それが法律により結晶化したような社会は、忌むべき社会である。社会は、さまざまな力の集まりと、あらゆる種類の影響との間で、絶えず変化し4、独自の道で調和を探っている4」(注32)。このようにクロポトキンは、静止したフォルマリズムではなく、絶えず変化する力関係、言い換えるなら、運動や行動を秩序立てる行為論的な規範を言い表す際に「均衡」という概念を用いている。これは先に述べたように、物事を量化し、力やエネルギーのもとに一元化する「均衡」のパラダイムゆえに可能になった考え方である。つまり「均衡」は補色対比のような造形的な規範にもなり、同時に政治思想のような行動規範にもなりえる。それゆえ「均衡」の規範は、造形芸術の範疇を超えて、全人格的な規範にもなりえるのである。「均衡」を旗印にした新印象派やマティスが、美だけではなく健康や幸福といった全人格的な充足を求めたのは、その証左であった。4 「健康」と「幸福」の追求:芸術と生活実践とのはざまでいわゆる「厚生芸術」を近年標榜している山本和弘も認めるように、芸術と医療福― 5 ―

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