尋常ならざる様としての印象を強くしている。詞書中の「穢土にはとゝまらすして、浄土の門に踊入なん」という表現が僧の身ぶりと関連付けられるが、この人物の名前と思しき「不留坊」は、二段の詞書に登場し、一段の段階では明らかではない。この思わせぶりな場面については、既に描かれたモチーフを検討し、画面に配置された要素を読み解く事で、男性の発心を表現する場面として解釈でき、「不留坊の発心」をめぐる物語的な展開を表象していることを、拙論で指摘した(注4)。続く二段についても一段と同様、詞書の内容は断片的に絵に反映されるが(注5)、明確に事態を説明するものとはなっていない〔図2〕。前半部には流水と庵室、後半部には責め苦を負う「名聞家」という人物を中心にした展開が描かれ、その接合は挿図をみると分かるように、門と建物が接近した不自然なものである。しかしながら、一・二段では場面を捉える視点は概ね俯瞰で統一され、画面から受ける印象はさほど破綻している訳ではない。これに対し、三段では空中を浮遊する阿弥陀仏と僧、宝池と宝樹、七宝宮殿が、それぞれ視点が大きく異なる形で描かれる〔図3〕。各部分の繋がりは自然なものではなく、全体の統一感に欠く印象を受ける。冒頭の僧に関しては、面貌の表現が一段と類似することから、「不留坊」を表象していよう(注6)。彼が阿弥陀仏とともに虚空を浮遊することが何らかの意図を表象していると思しき一方、この場面を全体的に示す物語的な展開は一見して明らかではない。本絵巻の詳細な検討を行った山本泰一氏は、三段の絵後半の宝池と宝樹、七宝宮殿に関して、四段詞書「宝樹宝池宮殿楼閣と、たかひに映微する等、なんそ依報の光明、赫奕たるをや」を描いているものとした。つまり、絵のない四段詞書の内容が断片的な形で、三段の絵に反映されていることになる。山本氏はその上で、三段の配置が清涼寺本「二河白道図」の浄土各モチーフ配置と類似していることに言及しつつ、本絵巻には掛幅装など一面に多くの場面を描く原本の存在が想定されること、三段の統一性を欠きかつ四段の内容が混入する状況は、そのような原本を絵巻の形態に描き直した際に生じた構成の間違いではないか、としている。しかし今回の研究を通じ、一段から三段までの本絵巻の絵は関連性を持って機能しており、全体を通してまなざす時、現状の三段のイメージは写し間違いではなく、不留坊の発心に対応する、本絵巻の帰結点として造形されたものとして読み解けると考える。その上で、三段のみが清涼寺本「二河白道図」という個別の作例と関係性を有しているのではなく、本絵巻全体が「不留坊」に仮託して二河白道図を引用する、という構造を有していると判断した。一段から三段に描かれる各モチーフを二河白道図― 157 ―
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