祉は狭義の「芸術」概念が成立した18世紀半ば以降は明らかに乖離しており、両者の協合は21世紀的課題と言いうるほどに現代的である(注33)。ペーター・ビュルガーは、生活実践と芸術との相容れない関係を次のように的確に述べている。「すなわち、〔芸術と生活実践との〕止揚を求めるアヴァンギャルドの要求が実現可能であるとされるならば、芸術は消滅してしまう。ところが、この要求が取り消されるならば、つまり、芸術と生活実践の分離が自明のものとして甘受されるならば、芸術はやはり消滅してしまうのである」(注34)。言い換えるなら、芸術は日常生活と離れすぎてしまえば、孤立し、社会的機能を失ってしまうが、日常生活に関わりすぎてしまえば、生活実践に埋もれてしまい、もはやその存在意義を失ってしまう。前者の問題が「芸術の非人間化」が叫ばれた前衛のものとすれば、後者は芸術と日常生活との融合を目指す21世紀的営みに降りかかる問題である。そもそも「美的無関心性は近代美学の最も基本的な概念の一つ」であり(注35)、私欲のような「関心性」にまみれた日常生活の営みは、芸術を無化しさえする。事実、第二次大戦後から現代まで一層強まりつつある芸術と生活実践との協働の流れは、芸術の輪郭を見えなくし、その存在を脅かしている。例えば芸術療法の先駆者マーガレット・ナウムブルグは、絵画の得手不得手を一切無視したときに初めてセラピーは可能になると主張する(注36)。また1960年代からアメリカ西海岸で盛んになったカウンターカルチャーの流れは、ニューヨークの前衛芸術を批判しつつ、その実態はもはやアートではなく生活そのものとなっている(注37)。さらに2000年代に入り、「脱芸術」を標榜する熊倉敬聡の《京島編集室》の試みのように、「歩くこと、挨拶をすること、買い物をすること、酒場で飲むこと」などの「住む」ことそのものをプロジェクトとし、芸術そのものを解体する動きがある(注38)。このような大局的な流れを鑑みると、幸福や健康を追求した新印象派やマティスの芸術の行きつく先は実にラディカルであり、危険ですらありえたと認識しうる。実際、芸術は多くの場合、美的な快をもたらすことを目指しつつも、全人格的な完全性である幸福や健康を実現しようとする動きは、先に述べたように、微弱であったと言わざるをえない。そのことは、こと近代芸術に関しては、「幸福」を主題とする美術研究が極めて貧弱なことからも窺えるだろう(注39)。新印象派が強い関心をもっていた同毒療法などの代替医療の系脈を受け継ぐ現代の医師アンドルー・ワイルは「健康」を以下のように定義する。「〈健康〉とは〈全体〉である。すべてを包含し、すべてがほどよい秩序を保ってバランスという神秘な姿をとった、最も深遠な意味での〈全体〉である。健康とは、単に病気ではないというこ― 6 ―
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