る子供に象徴される恩愛からの脱却の意図をより明確に示すが、こういった「管絃」、「豊かな暮らし」は先に述べたように、現世の刹那的な快楽として二河白道図に登場するモチーフであり、また女性、子供は恩愛の象徴として水河中に描かれる。二段前半の山奥の閑居については、一段の不留坊のしぐさ、「豊かな暮らし」に対応する「遁世」「隠棲」の場として捉えられる(注9)。後半部の責苦を負う名聞家の表現では、名聞家の腹の上に乗せられた銭さしや布、箱が、二河白道図における水河中の財宝の表現と結びつく。一方で、鬼たる妻子の姿は六道絵や地獄絵に見える獄卒、特に黒縄地獄、等活地獄の表現に散見される亡者を拘束する姿に類似する。これは一見二河白道図とは結びつかない表現であるように思われる。しかし、例えば香雪美術館本など、火河における争い合う人々の中には仰向けに拘束され、拘束される男性の表現が見いだせる。無論、書き入れの通り二段についても執着、恩愛の表現を意図したものとしての意味も果たしていようが、同時に火河になぞらえられる憎悪の表象とも、二段は重なり合うイメージを有している。上述のような一・二段ののちに三段を見れば、山本氏も指摘したように、浄土の景として配置される宝樹、宝樹、宮殿と、浮遊する阿弥陀、不留坊の姿がある。このように構成することで、白道を渡り二河を超えた先の彼岸の浄土として三段を造形しようとしたのではないか。すなわち、絵巻全体を通して二河白道図のイメージを、絵巻という形態に転用し展開することが本絵巻の制作の狙いの一つであったのではないかと考える(注10)。そしてそれは、個別の作例との具体的な参照関係ではなく、より広い枠組みとしての二河白道図のプランを絵巻という画面が連続する形に当てはめることだったのであると言えよう。時宗における二河白道図と祖師像本絵巻は全体を通して二河白道図の表現形式を引用し、不留坊の発心に仮託してストーリーを展開する。時宗では、二河白道図は祖師である一遍の行状において重要な契機となったものとして理解されていた。正安元年(1299)の奥書を持つ一遍の行状伝絵巻「一遍聖絵」一巻四段には、一遍が庵室の壁に二河白道図を掛けて拝し名号を唱えることを通じて、「十一不二頌」を得るに至ったことが述べられている。「一遍聖絵」詞書では「青苔緑蘿の幽地をうちはらひ、松門柴戸の閑室をかまへ、東壁にこの二河の本尊をかけ、交衆をとゞめて、ひとり勤行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す」(注11)とし、流水のほとりの庵室に掛幅を掛け、その内容を説く一遍の様子を描く(注12)〔図5〕。一遍が絵解きする掛幅、詞書にいう「二河の本尊」は画中に詳― 159 ―
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