注⑴ 作品解説「破来頓等画巻」『国華』第291号、1914年、44−49頁⑵ 山本泰一「「破来頓等絵巻」について─時衆の教義の絵画化─」『金鯱叢書』第15号、徳川黎明 徳江元正「やれことうとう考」『室町藝能史論攷』三弥井書店、1984年、326−337頁 があり、語りの中に挿入される囃し言葉としての性格が指摘されている。人物と共に描く特異な肖像画である〔図7〕。高宮寺本の描写を本絵巻と比較すると、浄土の景を示す宝樹や宝池、虚空を舞う蓮華の表現が共通する。しかしそれ以上に蓮台に立つ合掌する僧体の人物としての他阿像の形式が、不留坊の姿と共通している点に注目したい。面貌表現を見る限り、不留坊と「他阿真教像」はそれぞれ個人的な特徴を表現している。本絵巻は不留坊を他阿として描こうとしている訳ではない。しかし、「合掌する立ち姿」は、特に肖像画において他阿の尊崇されるに相応しい姿を表象するものとして受容されたと考える。惑乱するかのような描写から始まった不留坊の姿が、三段において他阿の姿を想起させる「立ち姿」によって改めて描かれ、かつ浄土を示すモチーフを伴って阿弥陀と対面する。白道を渡り浄土に至るに相応しい存在として不留坊を造形し、またそれを時宗の中で培われた信徒を導く祖師に重ねるイメージとして提示する事が、本絵巻にとって重要な意味を持っていたのではないか。おわりに「破来頓等絵巻」は、不留坊と彼の発心をめぐるストーリーに仮託し、「こゑのなかに機法一体となる」ことに至るプロセスを絵巻として構成するものであった。絵巻全体を通して、時宗で重んじられた二河白道図のモチーフを引用、掛幅画の二河白道図が持つ画面下方の現世から上方の浄土へという指向性を、向かって左へと進行する絵巻の形態に合わせたものにした上で、物語を展開させている。さらに、三段は浄土に至る不留坊のさまを尊崇される祖師に重ねた表現で描くことで、不留坊が名号への帰依を通して浄土に至ることを示す。そして、それとともに、「絵巻をまなざす人」自身にとっての救済を不留坊、ひいては祖師が媒介することを、本絵巻は示唆していると言えよう。101頁会、1987年、333−369頁⑶ 詞書については、注⑵山本氏による釈文に拠る。 特に「破来頓等」という語句に関する考察として 三谷栄一「物語る形式」『物語文学史論』有精堂出版、1952年初版、1965年新訂版発行、72−― 161 ―
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