ダーラ地方のそれには乖離があり、毘沙門天像がガンダーラで創造された後、どのような過程を経て「兜跋」形というバリエーションを生み、東アジアに伝わったのか裏付けられない状態が続いている。このような状況の中で発見された本像は、ホータン地方に伝わる数少ない毘沙門天像の作例の中でも重要な図像的特徴を備えた作品といえる。注目されるのは、その宝冠中央にあらわされた鳥の存在である〔図3〕。そもそも「兜跋」毘沙門天の図像的特色は、①宝塔と戟を持つ、②地天・二鬼に足下を支えられる、③胴鎧をつけ、三面立ての宝冠(鳥・鳳凰があらわされる)を戴く、という三点が主なもので、東寺毘沙門天立像などが代表的な作例として挙げられる〔図4〕。わが国の『覚禅鈔』巻百十七には「恵什云、(中略)天竺于眞国、有古堂、安置毘沙門。戴鳳凰也」(注4)(恵什いわく、(中略)天竺の于眞国には古堂があり、毘沙門天像を安置している。その像は鳳凰を戴く。)と記されており、これを論拠として「兜跋」毘沙門天像の宝冠を装飾している鳥や鳥翼の由来をホータンの毘沙門天像に結びつけようとする指摘も行われてきた。しかし、かつてA・スタインがホータンのダンダン・ウイリク遺跡やラワク(Rawak)遺跡で発掘した毘沙門天らしき塑像には脚部しか遺っておらず(注5)〔図5〕、またスクラインが中央アジアで入手した毘沙門天像板絵(注6)〔図6〕などからはホータンの毘沙門天像に鳥や鳳凰で飾られた宝冠があらわされていたかどうかは確認できなかった。しかし、本像の発見により、鳥があらわされた宝冠を戴く毘沙門天像の最古例がホータンに存在したことが証明されたといえる。本像は鎧をつけず、地天・二鬼に支えられていないため「兜跋」形とは断定できないものの、鳥冠が存在することから、「兜跋」毘沙門天図像の源流がホータン地方にあった、とする見方に有利な証左となる。また、本像が身に着けているチュニック状の衣服はクチャ・キジル石窟壁画などに描かれる武人像のものと同種で、中央アジアの服の縁に沿って飾りを施すのはイラン系民俗の風習であると指摘されている(注7)。なお、本像は右肩先を欠失しており、毘沙門天像の重要な標幟である宝塔を持物とするかどうか不明である。しかし、本像は吉祥天と考えられる女神像と対であらわされており、後述するように于眞では吉祥天とペアで祀られた毘沙門天である可能性が高い。三、吐蕃が先か、于眞が先か前述したように、いわゆる「兜跋」毘沙門天の図像の源流について、その甲制がチベットの武人の姿に由来するのではないか、とする主張が中国の研究者からなされて― 169 ―
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