いる。ここでは毘沙門天図像の起源をめぐる議論とそれぞれの主張の妥当性を検討し、その上で本像の史的位置を明らかにしたい。于眞由来説毘沙門天像の甲制の起源に関する議論はわが国では1930年代から続けられてきた(注8)。宮治氏が明らかにしたように(注9)、「兜跋」毘沙門天像の原初的な図像はガンダーラやイランなど6〜7世紀頃の中央アジアの帝王像にその源泉があったと考えられ、その後何らかの変遷を辿って中国に図像が伝播し、遅くとも8世紀後半には中原で流行し始めたと推定されている。中原へその信仰が伝えられるきっかけとして従来重要視されてきたのが于眞国の存在である。7世紀に玄奘によって記された『大唐西域記』において、当地における毘沙門天信仰が伝聞されるなど、于眞と毘沙門天の関係性は数多くの史料に散見され、また断片的な資料ながらも、ホータン地方から請来された毘沙門天像も数点知られる。「兜跋」という名称についても、さまざまな議論はあるものの「兜跋」は「吐蕃」に通じ、それはチベット本土ではなく吐蕃が占領していたホータン地方を指す、あるいはホータン地方を指す古代トルコ語〈Tubbat〉に由来する、などと考えられている。田辺氏は、確証には欠けるものの、「兜跋」毘沙門天の成立問題に関してはホータンは依然として重要な地点であると位置づけ、その論拠を挙げる(注10)。第一に仏典の記述について、①644年頃にホータン地域を訪れた玄奘の旅行記『大唐西域記』巻第十二に、于眞建国伝説が記される点(注11)。これは于眞の王家(毘沙という姓を名乗る)は毘沙門天像の額から生まれた赤子の後裔であるという神話の一種である。②チベット語で記された『于眞国史』には、于眞の王妃が毘沙門天の姿を見て身ごもった子供(クサタナ王子)が于眞王家の開祖であり、この子供は地天女の乳房(Kustana)から乳を吸って生き延びたと記される点(注12)。また、毘沙門天と吉祥天がクサタナ王子とマウリヤ朝の大臣耶舎(ヤショ)との戦いを中止させた結果、毘沙門天と吉祥天を祀った社が建立され、この男女神が于眞の守護神になったという記述もある(注13)。6世紀頃までの仏典には于眞の毘沙門天信仰について記されないことから、6世紀半ばから7世紀初期頃にホータン地域に毘沙門天信仰が出現したのではないかと田辺氏は推測する。第二に、ホータン地域の仏教寺院遺跡から出土した資料を挙げる。①A・スタインがダンダン・ウイリクとラワクの仏教寺院遺跡で発掘した塑像群について(前掲〔図5〕)。前者は仏塔の周壁東南側に設けられた出入り口に配された守護神像で、チュニ― 170 ―
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