鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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ックを着けてズボンとブーツを履き、両足を女神像に支えられている。田辺氏は、この女神像が吉祥天と同一視された地天女である可能性を指摘する。毘沙門天と地天女のペアの原型は、ホータンに比較的近い北西インドのカシュミールに由来し、それが伝播してホータン地方で創造された蓋然性が高いという。後者は邪鬼を踏まえた武人形で、丈長のチュニックを着た上に小札鎧をつけている。第三に、毘沙門天が戴く鳳凰冠について。『大唐西域記』に記される、アフガニスタン東部のカーピシー(迦畢試国)の仏教寺院の神像(冠中に鸚鵡鳥像がある)と、アフガニスタン北部のバルフ(縛喝)の仏教寺院に安置される毘沙門天像(宝物を盗賊から護る)の二種類の説話を挙げ(注14)、その二話が後世合成され、『覚禅鈔』(注4前掲)に「于眞の毘沙門天像は鳳凰を戴き、その像が盗賊から宝物を守る」という説話が記された蓋然性を高いものとしている。しかし氏は、5〜6世紀の制作と考えられるアジャンタ―石窟第9窟にあらわされたインド人王侯風人物(ターバンの上に鸚鵡を戴く)や、カーピシーのハイル・ハネー神祠・大理石製太陽神スールヤ神像(4世紀末〜5世紀か。7〜8世紀という意見もある)、突厥の王キュル・テギン像頭部(8世紀)など、鸚鵡や鳳凰を頭上に戴く神像などの作例を挙げ、5〜7世紀頃のホータンの毘沙門天像が鳳凰冠を戴いていた可能性をなお保留する。結果として6〜7世紀の制作と考えられる本像が発見されたことで、氏の推測は正しかったことが証明できるだろう。第四に、ホータン近辺から発見された四天王像を挙げ、毘沙門天像の作例に近いものとして位置づけている。①ホータンの南方パキスタンのギルギッド地方から発見された岩壁画(6〜7世紀)には、長槍を手に立つ四天王が確認できる(注15)〔図7〕。②ギルギッドよりやや南方のスワート・ゴルバンド渓谷から発見された青銅製ストゥーパ・モデル(ペシャワール博物館蔵)には、ハルミカ部の周りにチュニックを着て右手に長槍を持つ毘沙門天が正面観で浮き彫りされている(注16)〔図8〕。第五に、ガンダーラの毘沙門天像とホータンの毘沙門天像の共通点及び相違点として、鎧による武装を挙げている。両者とも鎧で武装する点で共通する一方、武器が弓矢と長槍(三叉戟)である点が異なるという。氏はホータンの毘沙門天像の重要性が武装・武具の変化にある点を強調している。札甲はガンダーラの武装した毘沙門天像が身に着けていたが、それが単に踏襲された可能性に加え、ホータンを含む中央アジア・西アジアで戦闘形態が変化した可能性にも氏は注目する。ガンダーラで毘沙門天像が創造された時は、弓矢を使う軽騎隊が軍隊の主力であったため、弓矢を持つ毘沙門天像が軍神・護法神の姿としてふさわしかった。しかし、3世紀前半に至ってササ― 171 ―

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