鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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ン朝が勃興すると、軍隊の主力は、軽騎兵から長槍を主たる武器とする重装騎兵に移行した。一方、毘沙門天に期待される職能は中央アジアでは福神から守護神・護法神・武神としてが次第に強調されるようになった。毘沙門天の性格上の変化と、軍隊の主要武器・武装の変化が相まって軍隊の中で中心的な存在である重装騎兵の外観をホータンをはじめとする中央アジア(東トルキスタン)の毘沙門天や四天王が帯びるようになったのではないか。氏はこう推測する。以上の五点を中心に、氏はホータン地方における毘沙門天像の問題を詳述している。特にクシャン朝滅亡後のクシャノ・ササン朝、キダラ・クシャン朝、エフタル族の統治が続いた4〜6世紀にかけて、仏教の変遷や毘沙門天観の変遷があったのではないかと氏は述べるが、この時代は文献・考古美術資料が極端に不足している状態で、上述した変遷の問題を解決するのは至難の業という。本像はこのような状況の中発見されたもので、その史的重要性はきわめて大きいといっても過言ではない。于眞と毘沙門天に関しては、以下の漢字史料数点もその密接な関係性を示唆するものとして知られる。第一に、乾元二年(759)までには成立したと考えられている李筌『神機制敵太白陰経』である。この史料には吐蕃に攻められた于眞国や、安西を包囲された唐軍を助ける存在として毘沙門天が登場する説話が掲載される(注17)。同経には金甲をつけ、戟と塔を持つ于眞国の毘沙門天像の姿についても記される(注18)。9世紀初頭に空海が日本へ請来した、いわゆる智泉本の白描図像〔図9〕は当時の中原の流行に沿って描かれたものと考えられるが、これは金属製の鎧をつけ、戟と塔を持った于眞国の毘沙門天像と同様の図像といえる。第二に、756年の安史の乱に乗じて吐蕃が唐に侵攻した時、于眞王の尉遅勝が国人5000人を率いて唐軍を助け、そのまま唐に留まった点が留意される(注19)。のちに『毘沙門儀軌』など、不空訳とされる毘沙門天関係の偽経が多く生み出され、そこに記されたいわゆる安西城霊験譚─主に唐軍を救援する武神・毘沙門天の活躍を描く─が広く流行するが(注20)、そのきっかけは上述した于眞国の援軍と、彼らが信仰している毘沙門天が広く知られるようになったことにあるのではないだろうか。第三に、時代の下る史料ではあるが賛寧撰『宋高僧伝』(端拱元年・988)に、開元十四年(726)に玄宗が東方を封じる際、車政道に于眞の天王様を開封・相国寺の寺壁に描かせたとあることや、同様の内容を記した郭若虚『図画見聞誌』(11世紀末頃)の記事などを挙げることができる(注21)。― 172 ―

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