吐蕃由来説一方、2008年に発表された謝継勝氏の考察によれば(注22)、従来西域風と言われていた毘沙門天像の小札綴りによる裾長の甲や、毘沙門天が腰に帯びているカーブした大刀はもともと吐蕃人が用いていたもので、いわゆる「兜跋」毘沙門とは事実上、吐蕃武士を写したものであり、中唐期以降の毘沙門天像の形式は吐蕃人が創造したものであるという。毘沙門天が身につけている「連身甲」(小札綴りによる細身の身甲・腰甲)は7世紀後半に吐蕃が于眞を含む西域に侵攻した後に見られるようになるが、それは吐蕃人が自ら発展させたもので、この甲冑によって吐蕃は領域拡大に成功した。この甲を吐蕃由来と主張する根拠として謝氏が挙げているのは、ラサ・ポタラ宮に伝わる吐蕃時期の甲冑や、大昭寺の壁画、吐蕃によって占領された時期以降の新彊で制作された武士塑像、吐蕃占領時期の敦煌地域の石窟壁画(莫高窟第154窟像〔図10〕、楡林窟第15・25窟像)などである。謝氏の論文が発表された後、沙武田氏から謝説を補強する論考が提出された。沙氏は、莫高窟や楡林窟で8世紀末の吐蕃占領期以降数多く造像されるようになった毘沙門天像をとりあげ、その武装形式が吐蕃武士の影響によって成立した可能性を指摘する(注23)。チベット本土でいわゆる「兜跋」毘沙門天像が流行したというよりは、チベット人武士の装いが敦煌の天王像の形式に影響を及ぼしたのではないかと氏は述べる。フランス・パリの国立図書館が所蔵する毘沙門天画像(P4518(27)、〔図11〕)に于眞文字が記されていることにも氏は注目し、吐蕃天王像が北方天(毘沙門天)図像の発展・変化に大きな影響を与えたのだと主張する。つまり吐蕃が敦煌を占領した時期に、于眞でもともと信仰されていた地天に支えられる毘沙門天と、吐蕃式甲制の天王像の形式が組み合わされ、全く新しい図像が誕生したのでは、と推測する。以上、「兜跋」毘沙門天の図像的源流を吐蕃あるいは于眞にあると想定する、いくつかの理由について確認した。ここで二説を整理・検討してみよう。ホータン地域から崑崙山脈を越えればチベット高原が広がっており、地図上ではホータンとチベットは意外なほど近接しているようにも見える。よって吐蕃と于眞に文化的交流と影響・受容関係があった可能性は充分に高い(注24)。しかし、こと「兜跋」毘沙門天図像の源流についていえば、これまで確認してきたように、于眞由来説には吐蕃由来説にない史料面・作例面からの裏付けが圧倒的に多い。近年はとくに中国人研究者たちによるチベットの発掘調査・研究がさかんであるため、チベットにおける補強材料が発― 173 ―
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