見されれば、吐蕃由来説があるいは有利になることもあるかもしれない。いま論拠として挙げられている敦煌の作例は物的証拠になりづらいと考えるが、それは敦煌石窟造営の背景の複雑さに起因するためである。先ほど確認したように、吐蕃が敦煌を占領する8世紀末より以前に、中原でも毘沙門天信仰及び造像は行われていたと考えられる(注25)。そして敦煌石窟にのこる「兜跋」毘沙門天のなかで最も古いと考えられる作例はおそらく吐蕃占領期以前に遡る可能性がある(注26)。吐蕃占領期、敦煌石窟において吐蕃人の手による造営窟に「兜跋」毘沙門天のような新規な図像があったとしても、彼らが中原やその他中央アジアの信仰・造像を反映した可能性は考慮に入れるべきであり、それをただちに吐蕃人の創造によるものとは判断できない(注27)。まとめにかえて ─毘沙門天像の位置と今後の展望─ここでは、本像について重要だと思われるもう一つの論点について述べ、今後の展望を示したい。それは本像があらわされた位置に関する問題である。前述したように、本像は堂内開口部の脇に描かれる。毘沙門天を含む四天王は守護神・方位神として信仰されたため、塔、仏堂内の四方や門などの出入り口にあらわされる例が多い。トプルクドン一号仏寺では毘沙門天はおそらく吉祥天と一対の神像として開口部の両脇に配されたのだと考えられる。独尊の毘沙門天像が仏堂・仏寺の門の脇に安置される(描かれる)例としては、本像はなかでも最も早期の作例である。たとえば敦煌石窟では、壁画の位置がほぼ当初のままであるため比較を行いやすいが、同石窟にあらわされた独尊・立像の「兜跋」毘沙門天に類する作例は8世紀後半以降のものが20例ほどあり、その多くが前室や主室の出入口付近に位置することが明らかである(注28)。石窟を寺院建築や都市空間の構成に見立てた場合、このように外と内との境界に毘沙門天像を配する傾向は、のちに毘沙門天像が城楼という都市の要塞空間に安置されることにも通じる。たとえば東寺毘沙門天像が羅城門に安置されたか否かという問題は議論されて久しいが(注29)、毘沙門天像が安置される「場」の問題についても、本像は一つの判断材料を提供する。これまで、本像について図像の特徴とその重要性や、「兜跋」毘沙門天図像の源流についての議論と問題点、毘沙門天像が安置される位置について考察した。詳細に論じてきたように、本像は毘沙門天図像の起源や受容に関する議論に一石を投じるインパクトのある作品である。毘沙門天は明確な図像規定が少なく、期待された職能(仏― 174 ―
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