注⑴巫新華;郭物;雷然;鐘建;艾力;艾則孜;買提哈斯木「新疆和田地区策勒県達瑪溝仏寺遺址発掘報告」『考古学報』2007年4期。巫新華「新疆和田達瑪溝仏寺考古新発現与研究」『文物』2009年8期。中共策勒県委、策勒県人民政府著『策勒達瑪溝』大成図書有限公司、2012年2月。⑵「兜跋」という名称はわが国でのみ確認されるもので、その名称が確認できる現段階で最も古い史料は11世紀初頭の成立である。『播磨国書写山円教寺縁起并仏像経論堂舎資財年輸伽徴米聖者徳行門弟起請等事合拾壱箇条』(いわゆる『延照記』、1010年編纂)には、如意輪堂の安置仏として「同三尺兜抜天像一体」と記されている。Northern Pakistan, vol.3, Mainz, 1994, Fig.4.⒃Deborah Klimburg-Salter, “Vaisravana in North-West India”, Recent Researches in Indian Archaeologyand Art History, Delhi, 1981, Pl.XCVI-a,b. 前掲M. Maillard. 1994. Figs.7−8.法守護、王城鎮護、舎利や宝物の守護、福神・武神など)が多岐にわたるために各時代・地域の思想的・宗教的変化の影響を受けやすく、天部系尊格のなかでも特殊な信仰と造像が行われた。造形上の展開が柔軟に行われるからこそ、時代性・地域性を反映した信仰と造像の有り様が浮き彫りになり、歴史的価値の高い研究対象であるといえる。本像の図像が持つ重要性に加え、数少ないホータン絵画の遺例としても、近年のダマゴウ遺跡の発見は、同地域の絵画・仏教史研究の進展に今後おおいに寄与するものと考えられる。⑶宮治昭「兜跋毘沙門天の成立をめぐって─対立と交流による図像の成立─」国際交流美術史研究会第十回シンポジアム『東洋美術史における西と東─対立と交流─』、1992年3月。田辺勝美『毘沙門天像の起源 ガンダーラにおける東西文化の交流』東京大学博士学位論文、2002年。⑷『大正大蔵経』図像編第五巻・534頁下。⑸M. Aurel Stein, Ancient Khotan, Oxford, The Clarendon Press, 1907.⑹Joanna Williams, “The Iconography of khotanese Painting”, East and West N.S. vol. 23, Rome, 1973.⑺原田淑人『西域発見の絵画に見えたる服飾の研究』第二章第三節、東洋文庫、1925年。⑻源豊宗「兜跋毘沙門天像の起源」、『仏教美術』15号、1930年。松本榮一「兜跋毘沙門天像の起源」『国華』471号、1930年。松本榮一「兜跋毘沙門天図」『敦煌画の研究』第九節、東方文化研究所、1939年など。⑼注⑶前掲、宮治氏論文、69頁参照。⑽田辺勝美「ホータンの毘沙門天」前掲書、158−167頁。⑾玄奘『大唐西域記』(貞観二十年・646)巻十二・瞿薩旦那国条。⑿寺本婉雅『于眞国史』丁字屋書店、1921年、17頁。⒀前掲寺本著書、18−20頁。⒁前掲『大唐西域記』巻一・縛喝国、迦畢試国条。⒂Monique Maillard, Robert Jera-Bezard, “Les stupas de Kuberavahana a Chilas et Thalpan”, Antiquities of⒄李筌『神機制敵太白陰経』巻七・祭文総序(守山閣叢書本)「(前略)祗従群神殊形異状胡人事之、往年吐蕃囲于眞、夜見金人、被髪持戟行于城上、吐蕃衆― 175 ―
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