鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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図版出典 地図1、平面図ともに巫新華他「新疆和田地区策勒県達瑪溝仏寺遺址発掘報告」(『考古学報』数十万悉患瘡疾、莫能勝兵、又化黒鼠咬弓弦、無不断絶吐蕃扶病而遁国家知其神乃詔於邊方立廟、元帥又図其形于旗上、号曰神旗出居旗節之前故軍出而祭之至今府州県多立天王廟焉、一本■■宗曰、安西去京師一万二千里、須八月方到、到則無及矣、云、昔吐蕃囲安西、北庭表奏求救、唐元左右請召不空三蔵令請毘沙門天王、師至請帝執香炉、師誦真言、帝忽見甲士立前、帝問不空、不空曰、天王遣二子独揵、将兵救安西来辞陛下、後安西奏云、城東北三十里雲霧中見兵人各長一丈、約五六里至酉時、鳴鼓角震三百里、停二日康居等五国抽兵、彼営中有金鼠咬弓弩弦器械並損、須臾北楼天王現身(後略)」⒅『神機制敵太白陰経』巻七・祭文総序(守山閣叢書本)「(前略)毘沙門神本西胡法仏説四天王則北方天王也、于眞城有廟、身被金甲右手持戟左手擎塔、(後略)」⒆『旧唐書』巻一四四、列伝第九四、尉遅勝条。⒇安西城霊験譚についての分析は岡田健「東寺毘沙門天像─羅城門安置説と造立年代に関する考察─」(上)『美術研究』370号、1998年に詳しい。 賛寧『宋高僧伝』巻二十六・興福篇第九之一、唐東京相国寺慧雲伝(『大正蔵』2061−875a)「(前略)又開元十四年、玄宗東封迴勅車政道往于眞国、摸写天王様就寺壁画焉、僧智儼募衆画西庫北壁、三乗入道位次皆称奇絶、今之殿宇皆大順年火災之後蓋造、宋太祖重修、翰林待詔高益筆跡壁画、時推筆墨之妙矣、(後略)」。宋・郭若虚『図画見聞誌』巻五・相藍十絶条。 謝継勝「楡林窟15窟天王像与吐蕃天王像演分析」『装飾』182期、2008年6月。 沙武田「文化認同与芸術選択 ─以楡林窟第15、25窟為例看吐蕃密教芸術進入敦煌石窟的嘗試」『大興善寺興唐密文化学術研討会論文集』第三編、大興善寺興唐密文化学術研討会組織委員会、2011年。 チベットとホータンとの関係については寺本婉雅「于眞国仏教史の研究」(同氏前掲書、117−121頁)に詳しい。チベット西部からホータンに至るまでは約800キロの無住地帯があり、チベット中央部からは2700キロ以上あるため、チベット人がホータン周辺に勢力を振るうことができたのは790年から860年という70年間のみであった。 玄奘が帰国した後、西域の毘沙門天図像がすでに長安に伝わっていた可能性はある。西安・至相寺址出土の多宝塔塼仏(陝西省歴史博物館等蔵)は7世紀中頃の制作として知られるが、そこには多宝塔の両脇に戟と塔を持ち、背の高い宝冠を戴く天王像があらわされている。 たとえば莫高窟第103窟主室は8世紀第一四半期の造営と考えられているが、甬道北側に描かれた毘沙門天像は8世紀中頃から後半の制作と考えられる。中唐・吐蕃期の敦煌の毘沙門天像については拙稿「敦煌の中唐吐蕃期における毘沙門天像」の中国語版が『敦煌研究』に2014年4月掲載予定。 唐や于眞と吐蕃は、和平盟約を結んだ時期もあるものの、基本的には対立関係にあった。唐や于眞にとって侵略者ともいえる吐蕃武士の姿を護国神として信仰するかどうか、疑問が残る。 拙稿「敦煌の毘沙門天像」『朝日敦煌研究員派遣制度記念誌』朝日敦煌研究員派遣制度記念誌編集委員会、2008年、178−189頁。 前掲岡田氏論文参照。― 176 ―

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