鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
192/625

研 究 者:東京国立近代美術館 主任研究員 木 田 拓 也1 はじめに 問題の所在─多民族国家としての「帝国」日本本稿は、日本統治下の朝鮮(明治43−昭和20年)において開催されていた朝鮮美術展の工芸部門に焦点を当て、そこに出品された作品や審査員をつとめた日本人工芸家の言説を通じて、日本統治時代の朝鮮における近代工芸の様相を探ろうとするものである。近年、かつて日本が「帝国」として版図を拡大していた時代にその統治下にあった地域(台湾、朝鮮、樺太、南洋諸島など)における日本人作家の活動に焦点を当てた意欲的な展覧会があいついで開催されている(注1)。おそらくこうした動きというのは、戦後およそ半世紀にわたって国際社会を秩序づけてきた米ソ冷戦体制が崩壊しグローバル化がすすむ中で、日米関係を基軸として構築されてきた日本を取り巻く国際環境を見直し、新しい国際秩序の構築に向けて東アジアの周辺各国との関係回復の道筋を模索している現在の日本の立場を反映しているのだろう。平成24年(2012)には筆者が勤務する東京国立近代美術館工芸館において「越境する日本人:工芸家が夢みたアジア 1910s−1945」展を開催した。「アジアの世紀」の到来が現実味をおびて感じられる昨今、かつての日本とアジアの関係を「支配者/被支配者」「加害者/被害者」という二項対立的な関係からではなく、ポストコロニアリズム的な視点からアジア的な価値観なるものを基軸として見直し、グローバル化が進む国際社会における日本とアジアとの関係を前向きに捉えていきたい、というのが筆者の基本的な立場である。いまではあまりその面影はないが、かつて周辺地域へと版図を拡大していた「帝国」としての日本は、さまざまな民族で構成される多民族国家であり、その全人口の内のおよそ3割が、朝鮮人、台湾人、中国人などの異民族で構成されていた(注2)。その一方で、約160万人の日本人(内地人)が、台湾、朝鮮、樺太などに移住しており(注3)、例えば、昭和9年(1934)時点のソウル(京城)では、およそ4人に1人(382,491人のうち106,782人)を日本本土から移住した内地人が占めていた(注4)。当時は、日本人には東アジアの諸民族の血がほとんどすべて混じっているとする「多民族混合説」が流布しており、日本人の東アジア諸地域への進出は「民族の帰郷」と捉えられていた(注5)。日本は東アジアにひとつの共同体を構築し欧米列強― 181 ―⑰日本統治時代の朝鮮美術展の工芸─もうひとつの日本近代工芸史─

元のページ  ../index.html#192

このブックを見る