に対抗しようとしていたのだが、このような時代背景を念頭に置いて振り返ってみるならば、工芸には、東アジアのいわば共通言語ともいうべき役割が期待されていたのではないか、という関心が浮かび上がってくる。というのも、西欧近代の「美術」概念が流入する以前の東アジアにおいては、陶磁器や青銅器や漆器などの工芸品を賞玩してきた歴史があり、工芸には、東アジアの人々が共感しうる近代化以前の生活文化に根差した価値観や美意識が反影されていると考えられるからである。しかも、造形ジャンルとしての「工芸(=美術工芸)」が、ナショナリズムが高揚を見せた明治20年代、近代化と西欧化を不可分なものとして捉えてきたそれまでの日本の近代化のあり方を問い直そうとする機運が高まりを見せるなかで形成されはじめたことを考えあわせてみるならば(注6)、そこには西欧とは異なる独自の造形文化を確立しようとする意志が反影されていたと考えられなくもないからである。そこで本稿では、日本統治時代の朝鮮における近代工芸の様相を、朝鮮美術展を通じて探るとともに、そこでの「工芸」の実態や、その出品作に見られる「朝鮮的なもの/東アジア的なもの」について検討したい。2 朝鮮美術展の工芸部門朝鮮美術展(以下、鮮展)は文治政策を推し進めた齋藤實朝鮮総督(第三代総督:大正8−昭和2年)のもと、帝展(文展)をモデルに、朝鮮における美術振興策の主柱として、大正11年(1922)に開設され、昭和19年(1944)まで23回にわたって開催された官制公募展である(注7)。鮮展は、日本統治下にあった台湾における台湾美術展(注8)や、満洲における満洲国美術展(注9)のモデルともなっており、日本の外地における文化政策を検討する上で重要な展覧会といえる(注10)。鮮展については、朝鮮総督府が主催した美術展であったがために、戦後、韓国側からは正当に評価されてこなかったが、しかし、公的な美術教育機関がなかった日本統治時代の朝鮮において「美術」受容に重要な役割を果たし、近代美術の基礎を確立した展覧会としての意義を備えている(注11)。鮮展に工芸部門が開設されたのは昭和7年(1932)の第11回展からだった。日本国内では、昭和2年(1927)、帝展に工芸部門が開設されると、そこは「工芸美術」、すなわち、形は実用品だが絵画や彫刻と同じ意味での鑑賞を第一とする工芸作品の発表の場となり、帝展を通じて「工芸美術」というジャンルの輪郭線が描かれることになった(注12)。だが、これをそのまま鮮展の工芸部門になぞらえることができるわけではない。朝鮮総督府は鮮展の工芸部門を通じて、「工芸美術」をそのまま朝鮮に移― 182 ―
元のページ ../index.html#193