植しようとしていたわけでは必ずしもなく、また、朝鮮の伝統的なものを否定しようとしていたわけでもなかった。鮮展の展覧会規程には、「工芸美術」ではなく、「工芸品」と明記され、しかも、当局の林茂樹(朝鮮総督府学務局長)は工芸部門開設の理由として朝鮮固有の工芸の発揚をうたっており(注13)、朝鮮の伝統的な工芸を評価し、工芸産業の発展を後押しすることを鮮展の工芸部門の役割として期待していたことがうかがえる。さらに、工芸部門開設にあたって鮮展の評議員会は、想定される出品物の種類として、金属器、陶磁、硝子、染織、漆器、木竹、図案、模型をあげており(注14)、工芸作品だけでなく、図案や模型の出品についても認めていることからすると、鮮展の工芸部門はむしろ日本で「産業工芸」の振興を目的として開催された商工展をモデルとし、工芸の産業としての振興を意図していたとも考えられる。第11回鮮展の工芸部門の審査員に任命されたのは工芸史家の田辺孝次(東京美術学校教授)だったが、朝鮮在住の小山一徳(京城高等工業学校教授)、五十嵐三次(中央試験所技師)、浅川伯教の三名も鑑査に協力(注15)、98点の応募作品のなかから56点の作品が入選した。ところが、東洋画と西洋画については『第11回朝鮮美術展覧会図録』に全点が掲載されているにもかかわらず、工芸部門の入選作のうち掲載されたのは24点だけだった。鮮展の図録を編集していた朝鮮写真通信社の安藤静はこれについて「私の独断で、当局の指揮を俟たなかった」(注16)と陳謝し、掲載しなかった作品の題名と作者名を「補遺」として追記しているが、そこには生活雑器的なものが入選していることに対する関係者の困惑が見え隠れしている。第11回展に入選した56点の工芸品の内訳をみてみると、陶器12、漆器8、石器1、硝子1、彫金2、鋳金1、刺繍7、染織物4、朝鮮繊籠1、金属象嵌3、真鍮2、朝鮮小盤1、扇子2、莞花草細工品4、草席4、朝鮮梳櫛1、煙竹1、七宝1となっている。陶器や漆器などのように高級な土産物あるいは贈答品として作られた作品が大半を占めてはいるものの、扇子、莞花草細工品、草席、朝鮮梳櫛、煙竹など、朝鮮の伝統的な工芸技術に基づいて作られた日常的な生活雑器といえる工芸品も多数入選していたのである(注17)。鮮展には朝鮮在住の日本人も出品が認められており(注18)、入選者のうち約半数が日本人が占めていたが、第11回展で特選を受賞したのは、宗高猛《水注》、五十嵐三次《螺鈿漆器花台》、李男伊《真鍮製朝鮮式燭台》の3点だった(注19)。宗高猛の《水注》〔図1〕は、花文様を象嵌であらわした高麗青磁の技法による把手つきの水注で、五十嵐三次の《螺鈿漆器花台》〔図2〕は、螺鈿の技法を用いて一対の尾長の花喰鳥を表した作品だった。田辺孝次は朝鮮の工芸として、高麗青磁と螺鈿を歴史的に高く評価しており、そうした工芸史観を素直に反映した審査結果といえそうである■■■■― 183 ―
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