(注20)。また、李男伊の《真鍮製朝鮮燭台式フロアスタンド》〔図3〕は、朝鮮古来の燭台を基調とし照明部分には蝶をかたどった装飾を施したもので、真鍮という朝鮮の伝統的な工芸素材を用いながらも、洋風の建物にも調和するように電気スタンドとしたことが、朝鮮工芸の将来の方向性を示すものとして高く評価された(注21)。鮮展の工芸部門の審査員については毎年1名が内地から任命されており、田辺孝次(昭和7−11年)、津田信水(昭和16、19年)、清水南山(昭和17年)、松田権六(昭和18年)らいずれも東京美術学校の教官から選ばれている。このうち、昭和13年(1938)から昭和15年(1940)まで、3回にわたって工芸部門の審査員を務めた金工家の高村豊周は、鮮展の工芸家に対して図案研究の重要性を繰り返し力説し、古作の安易な模倣や土産物のような商品化に難色を示していた(注22)。さらに後年、高村は、朝鮮には工芸を指導する機関がなかったため新しい工芸の胎動すら見られなかった、ただ古いものを模倣していれば用が足りるという状態だった、と回想していることからもうかがえるように(注23)、工芸を教える美術教育機関がなかった朝鮮においては、「工芸美術」が根付く下地はいまだ整備されておらず、朝鮮の伝統に根差した産業的な工芸、しかも、土産物的な工芸が大勢を占めていた。なお、鮮展に工芸部門が開設された当初は、高麗青磁の出品が多かったが、次第にそれも下火となり、高村豊周が審査員を務めた頃には、螺鈿漆器が鮮展の工芸部門で主流を占め、陶磁器はあまり出品されなくなっていた。朝鮮の伝統的な工芸技術に基づく生活雑器といえるタイプの工芸品については、鮮展の終盤まで一貫して出品が認められる。なかでも朝鮮の伝統に根差す工芸品として高く評価されたのが鄭寅琥による馬の尻尾の毛を使ったハンドバッグやクッションなどの工芸品である。韓国ドラマなどに登場する朝鮮人男性がかぶっている「カッ」(笠子帽)とよばれる黒い縁広の帽子は、馬の尻尾の毛を織って作ったもので朝鮮時代には男子の正装用の帽子としてなくてはならないものだった。ところが、近代化とともにカッは次第に着用されなくなり、およそ3万人ともいわれたカッ職人がその職を失う危機に直面していた(注24)。鄭寅琥はその繊細巧妙な伝統技術が滅び行くことを惜しみ、馬の尻尾の毛を用いてクッションやハンドバッグや帽子を制作して鮮展に出品、特選を重ねたのである〔図4〕(注25)。3 鮮展の楽浪モチーフの工芸作品鮮展の工芸部門においては、高麗青磁や螺鈿漆器など朝鮮の工芸史において歴史的に高く評価されていたもの、あるいは、朝鮮の伝統的な工芸技術に根差した生活雑貨■■■夫(昭和12年)、高村豊― 184 ―■■■■■■■■周(昭和13−15年)、六角紫■■■
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