鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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的なものが、「朝鮮らしさ」を備えた工芸品として大勢を占めていた。そうしたなかで、「朝鮮らしさ」というよりもむしろ東アジア文化圏に共通する造形感覚を探ろうとするかのように、鮮展の序盤から終盤までほぼ一貫して出品されていたのが楽浪モチーフの作品、すなわち、平譲郊外の楽浪遺跡から出土した工芸品に見られる「楽浪模様」を取り入れた台、盤、盆などの漆芸品や染織品などである〔表1〕〔図5、6〕。こうした楽浪モチーフの作品の制作者としては朝鮮に在住する日本人が比較的多く、「楽浪模様」に対してはむしろ日本人が高い関心を抱いていたことがうかがえる。楽浪遺跡の発掘調査は、明治43年(1909)から東大の関野貞によって着手され、太平洋戦争末期の昭和19年(1944)まで、じつに30年以上にわたって継続的に行われていた〔図7、8〕。日本人が楽浪郡の発掘調査に熱を上げたのは、そこがかつて紀元前108年から西暦313年まで約400年間にわたって中国・漢によって植民地支配されていた地域だったからであり、日本による朝鮮統治に歴史的当為性を与えようとする政治的意図に根差すものだった可能性が指摘されているが(注26)、当時の日本人工芸家が楽浪からの出土遺物に対して高い関心を抱いたのはむしろ、日本と朝鮮半島を含めた東アジア圏に通底する「東アジア的なもの」の原型をそこに見出そうとしていたからではなかったかと考えられる(注27)。楽浪遺跡から出土した木製品、漆器、青銅器、陶器などはソウルの総督府博物館や平譲の図書館において公開され、朝鮮半島を訪れた日本人工芸家も高い関心を寄せていた(注28)。また、大正15年(1926)には東洋文庫(東京)において「楽浪古墳出土遺品展観」が行われ、漆杯、漆盤などが出品された。さらに、楽浪から出土した漆器については修理のために日本に持ち込まれ、東京美術学校の漆芸家の六角紫水と松田権六が、大正10年(1921)からおよそ5年がかりでその作業に取り組んでいる(注29)〔図9〕。六角紫水は楽浪漆器の技法に魅了され、筆で描いた線描と刀による彫刻線を組み合わせた「刀筆」による作品を制作、第8回帝展(昭和2年)に《刀筆天部奏楽方盆》を出品した〔図10〕。また、染織家の龍村平蔵は楽浪から出土した筒状の青銅器《金錯狩猟文銅筒》(重文、東京芸術大学美術館蔵)の表面に描かれた狩猟文をもとに壁掛《漢羅「楽浪」》を制作し、同じく第8回帝展(昭和2年)に出品した〔図11〕。日本人工芸家にとって楽浪が魅力的だったのはその神秘的ともいえる世界観をうかがわせる模様表現だった。例えば、狩猟文にみられる流動的で不定形な造形感覚は、仏教美術伝来以前の東アジアの基底にあった世界観や美意識をうかがわせるものといえる。鮮展に出品された楽浪モチーフの工芸作品に対し、五十嵐三次は、「楽浪文は■■■■― 185 ―

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