注⑴ 例えば、「美術家たちの『南洋群島』展」(町田市立国際版画美術館、平成20年)、「近代の東アジアイメージ:日本近代美術はどうアジアを描いてきたか」展(豊田市美術館、平成21年)、「浅川伯教・巧兄弟の心と眼:朝鮮時代の美」展(大阪市立東洋陶磁美術館、平成23年)など。⑵ 『大日本帝国統計年鑑 第59回』内閣統計局編(昭和16年2月)によれば、昭和5年(1930)10月1日時点の大日本帝国の総人口は90,396,043人で、その内25,186,851人、27.8%が日本人以外の異民族で構成されていた。⑶ 『大日本帝国統計年鑑 第59回』内閣統計局編(昭和16年2月)によれば、昭和14年(1939)末時点において、朝鮮に650,104人、台湾に324,488人、樺太に354,605人、関東州に194,933人、南洋群島に77,257人、計1,602,387人の日本人(内地人)が移住していた。なおこの数字には、満洲や中国華北地方に移住していた日本人は含まれていない。⑷ 『朝鮮旅行案内記』朝鮮総督府、昭和9年、43頁。⑸ 小熊英二『単一民族神話の起源:〈日本人〉の自画像の系譜』新曜社、平成7年、48、327頁。⑹ 明治期の日本における「工芸」ジャンル形成については、北澤憲昭「『工芸』ジャンルの形成:第三回内国勧業博覧会の分類を手がかりとして」(『美術史の余白に:工芸・アルス・現代美術』美学出版、平成20年)に詳しい分析が見られる。明治22年(1889)から翌年にかけて、帝国博物館(現在の東京国立博物館)、東京美術学校(現在の東京芸術大学)、第3回内国勧業博覧会二千余年前支那漢代に考案され、現代人の頭から到底生まれだせぬ珍奇な文様として、過去十数年漆器に応用されて売れ行きも良かった」(注30)と一定の評価を示しているが、鮮展にそうした作品が出品されていたのも、「楽浪模様」が東アジア圏の諸民族に共通の基底をなす造形文化を示すものとして、ひいては東アジア独自の造形文化成立の可能性を示唆するものとして共感を抱いていたからに違いない。4 むすびにかえて本稿では、日本統治時代の朝鮮における近代工芸の様相を、鮮展の工芸部門を通じて探ってきた。鮮展においては、高麗青磁や螺鈿漆器、そして、朝鮮の伝統的な工芸技術に根差した生活雑貨といえるような作品が「朝鮮らしさ」を備えたものとして評価されてきた。またその一方で、楽浪という題材に対しても多くの工芸家が高い関心を抱いていたが、その背景には東アジア圏に共通の造形文化を確立しようとする意志が働いていたように思われる。なお、鮮展に出品していた工芸家については今ではほとんど忘れ去られてしまっているが、今後は、鮮展に出品された工芸品の所在確認なども行いつつ、鮮展の工芸家についても追跡し、日本との関係を軸に、日本統治時代の朝鮮における近代工芸の実態について詳しく検討していきたい。― 186 ―
元のページ ../index.html#197