鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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において、あいついで「美術工芸(業)」という言葉が公式に使われ、美術ジャンルのひとつとして「工芸(=美術工芸)」が形成されはじめる。⑺『施政二十五年史』朝鮮総督府、昭和10年、914−915頁。⑻台湾美術展(略称「台展」)は昭和2年(1927)から昭和11年(1936)まで台湾教育会主催で開催され、昭和13年(1938)からは台湾総督府文教局主催となって台湾総督府美術展(略称「府展」)という名称で昭和19年(1944)まで開催された。だが出品区分としては、東洋画と西洋画のみで、工芸部門はなかった。⑼満洲国美術展(満展)は昭和13年(1938)から昭和20年(1945)まで開催され、東洋画、西洋画、彫刻、書、工芸などが出品された。⑽韓国美術研究所編『朝鮮美術展覧会記事資料集』美術史論壇第8号別冊付録、1999年、680頁。初出:山田新一「美術朝鮮の今昔」『朝鮮』第325号、昭和17年6月。⑾例えば、李仲熙「『朝鮮美術展覧会』の創設について」『近代画説』6号(平成9年12月)や金惠信『韓国近代美術研究:植民地期「朝鮮美術展覧会」にみる異文化支配と文化表象』(ブリュッケ、平成17年)や喜多恵美子「朝鮮美術展覧会と朝鮮における『美術』受容」(五十殿利治編『「帝国」と美術:1930年代日本の対外美術戦略』国書刊行会、平成22年)などにおいて、鮮展を通じた「美術」受容が検討されている。⑿拙稿「帝展が描き出す『工芸美術』の輪郭線」『美術史の余白に:工芸・アルス・現代美術』美学出版、平成10年、109−120頁。⒀前掲注⑽、314頁。初出:林茂樹「鮮展の変革に就いて」『朝鮮』第202号、昭和7年3月。⒁前掲注⑽、288頁。初出:「朝鮮美展工芸品種類範囲等決定」『毎日申報』昭和7年5月5日。⒂前掲注⑽、323頁。初出:神尾一春「鮮展を通じて観たる朝鮮の美術工芸」『朝鮮』第207号、昭和7年8月。⒃「第十一回朝鮮美術展覧会図録凡例補遺」『第十一回朝鮮美術展覧会図録』昭和7年。⒄前掲注⑽、289頁。初出:「美展□入選□工芸品五十六」『東亞日報』昭和7年5月24日。⒅「朝鮮美術展覧会規程」(『第十一回朝鮮美術展覧会図録』)第7條には、「製作者は朝鮮に本籍を有するものまたは展覧会開会まで引続き6ヶ月以上朝鮮に居住するものとす」と記されている。この出品資格は第15回展(昭和11年)からは緩和され、朝鮮に住所があるか、朝鮮に3年以上居住したことがあれば出品できることになった。⒆前掲注⑽、300頁。初出:「第十一回美展□朝鮮人特選六名」『東亜日報』昭和7年5月27日。⒇田辺孝次『工芸随筆 森』相模書房、昭和14年、2−9頁。 前掲注⒂。 前掲注⑽、572、626頁。初出:高村豊周「苦心が認められる」『朝鮮』第290号、昭和14年7月;高村豊周「図案が貧困」『朝鮮』第302号、昭和15年7月。 高村豊周『自画像』中央公論美術出版、昭和43年、293頁。 前掲注⑽、631頁。初出:五十嵐三次「力強い歩みを続く」『朝鮮』第302号、昭和15年7月。 鄭寅琥は第17回(昭和13年)に《駿織製クッション》を出品し特選を受賞、第18回(昭和14年)には《駿製女帽子》を出品して特選となり、朝鮮総督賞も受賞した。第21回展(昭和17年)にも《馬尾クッション》で特選、第22回展(昭和18年)には無鑑査で《駿毛編製ハンドバッグ》を出品し、やはり特選を受賞した。 李榮勲「楽浪文化研究の現況と課題」『楽浪漆器:東アジアの文化をつなぐ漢の漆工品』樋田豊郎編、美学出版、2012年、147頁。― 187 ―

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