察する。当初は「日本的なるもの」として価値づけられていた作品が、「ヨーロッパ化された極東」としてみなされるようになり、さらにアール・デコ終焉へと向かう中、「純粋で論理的」な装飾を実現するものとしての「フランスの伝統」と差別化されていく、その変遷を提示することになる。1.オキンの生い立ち明治13年(1880)、オキンことウジェニー・ジュバンは、フランス人の父シャルル・マリー=ジュバンと日本人の母タマ・ヤマナカの間に四人兄弟の第三子として横浜に生まれる。父シャルルはパリのパレ・ロワイヤル広場で古くから高級絹製品の貿易及び販売を手掛ける一家に育ち、1878年頃シルク・トレーダーとして来日した。一時滞在の予定だったが横浜に留まり、山手居留地に永住し貿易商を営むこととなる(注3)。2.第一期:1900年代後半〜1910年代─「日本的」なるものオキンが公にフランスの記録に登場するのは1906年のサロン・ドートンヌにおいてである。翌年から、フランス装飾芸術家協会のサロンや国民美術協会のサロンにも定期的に出品するようになる。これらの展覧会に彼女は「オキン」の名で出品を続けた。フランス国籍を有し、正式にフランス名を持つ彼女が、あえて「オキン」という雅号で作品を発表したことは、「日本的」なるものが生み出す何かしらの価値が、この時期まだ存在していたことを意味している。オキンは当初、角や象牙を用いたアール・ヌーヴォーの名残を感じさせる櫛やペンダント等の装身具、そのほかペーパー・ナイフ等の小物や小箱を制作していた。こうした角、象牙、黒檀など高価で希少な素材を用いた小物類をフランスでは古くから「タブレットリ」と呼び、これを制作する細工師を「タブルティエ」と称していた。1895年、オキンが十代後半の頃、横浜で父が死去する。この後1906年にパリのサロン・ドートンヌに初出品を果たすまでの足取りは正確につかめていないが、日本とフランスの文化が交じり合う家庭に育ち、横浜という異国情緒あふれる街で貿易商を営む父のもとで育ったことは、彼女の後の活躍に大きな影響を与えたと思われる。植民地下のインドシナで貿易業を営むこととなる実弟を訪ねたこともあると伝えられており、エキゾティズム、コロニアル趣味が一つの重要な要素でもあるアール・デコ様式の装飾を実現するにあたって、こうした出自が有利に働いたであろうことは十分に想像できる。― 193 ―
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