は、1923年の「彼女(オキン)において極東のすべての伝統がよみがえる」(注8)、といった評が示しているように、オキンに対しても例外ではなかった。しかしより注目すべき点は、「本来のジャポニスムからの興味深い翻訳。それはヨーロッパ化されたものである」(注9)、「熱情をもって細工されているが、総合的構成においていかに規律に従うかを心得ている」(注10)、といった評にみられる、その簡潔な表現に対するとらえ方である。ここでの「ヨーロッパ化」とは、おそらく「単純化」された「モダン」なフォルムの実現を指しており、そのことが、西欧の規律に従った結果としてとらえられている。すくなくともフランス側の意識においては、そのように解釈されていたと考えられる。アール・デコといえば、アフリカ的モティーフに代表されるエキゾティズムが、その意匠における一つの重要な源泉になっていた。よく指摘されるように、それらが、植民地主義的イデオロギーの表出であるとすれば、当時の植民地インドシナを含むアジアも例外ではなかったはずである(注11)。そうした帝国主義的世界観のなかで眺めれば、日本や中国の伝統的文様やアジア的イメージが幾何学的に整理されたオキンの作品が、「ヨーロッパ化された極東」を具現化したものと見なされたとしても不思議はない。日本人女性を確実に想起させる「オキン」という名と、モティーフや素材からイメージできるアジア的エキゾティズムと、そこに実現された秩序ある意匠があいまって、オキンの作品は、時代が期待する一つの要素を明らかに担う作品となっていた。オキンはその期待に見事に応えたといえるだろう。4.第三期:1925年〜1930年頃─夫シメンとの「共作」この章では夫アンリ・シメンとの共作による作品を考察する。1879年、北フランスのモンディディエでベルギー出身の家系に生まれたシメン〔図12〕は、アール・ヌーヴォーの著名な陶芸家エドモン・ラシュナルに学んだのち、次第に「極東」の陶磁器への関心を強め、第一次大戦の頃、中国・韓国・日本を旅したとされている。帰国後オキンと結婚、轆轤を放棄し、自然の釉薬のみを用い、とりわけ中国・韓国の影響が色濃い簡素な炻器〔図13〕を制作するようになっていた(注12)。陶磁器における日本の影響はアール・ヌーヴォー期にとりわけ顕著に見られる傾向だったが、その後も製法に関する徹底的な研究がなされ、1925年までには、技術的にはそれらを消化し応用する段階に入っていた。装飾においては、アフリカ的な幾何学模様と西欧の伝統的装飾に二分されていた。「極東」の影響を色濃く受けた簡素な炻器も制作されてはいたが、それらが主流になるのは1930年近くになってからである。― 196 ―
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