鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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ンは「純粋で適切なフォルム、論理的な装飾」を実現する作家として位置づけられ、「中国的すぎるという非難はまったく浅はかなものであり、実際は、シメンの芸術はなによりもフランス的なのである」と評される(注17)。一方、こうした見解を示す批評家はオキンの仕事を以下のように評していた。「彼女の見事な着想は、それもそのはず、当然である。島特有のアジア的技芸に培われている」(注18)。これは先述のバスタールに対する評に続く言及であるが、フランスの伝統に培われたものとするバスタールの作品に対し、アジア的技芸としてオキンの作品を区別しようとしている。ほかに、「偉大な造形美を持つシメン氏の壺、その頂部を飾るオキン夫人の魅惑的なうっとりするような蓋」(注19)という言及もあり、シメンの「造形美」とオキンの「装飾美」が対比的に語られる。さらに1930年には、「この繊細なアーティストはとりわけ夫の作品に、非常に慎み深い、非常に繊細な飾り(ornement)を付与することに専念するため、単独の作品をいくらか放棄したように思う」と評され、夫の「造形」作品に「飾り」を付け足す作り手として位置づけられる(注20)。もちろん、こうした批評は一例に過ぎない。しかし概して手先の器用さや繊細さを要する要素に対しては日本の影響を積極的に認めるが、論理性と結びつく(ものとして価値づけようとする)「形態の単純化」という要素に対しては、自国の伝統と関連づけようとする根強い意識が根底に垣間見えることは、第二期の単独の作品の受容においても確認できたことであり、その点がよりあからさまに誇示されるようになったといえるのではないだろうか。こうした意識に呼応するかのように、オキンは、「単独の作品をいくらか放棄する」(注21)ことによって、結果的に日本に期待される役割に戻っていったようにみえる。「偉大な造形美」と区別された小さく愛らしい、愛嬌ある(ときに可笑しみある)様相を呈する共作におけるオキンの「飾り」は、ピエール・ロティの小説『お菊さん』以降フランスに強固に定着した日本女性に対するステレオタイプのイメージ(亜流が頻出しアジア女性に広がった)、すなわち西洋的基準から見れば美しいとは言えないがエキゾティックで愛らしく子供のように従順な「プティット」なムスメのイメージと共通する(注21)。そこに含まれる従属性、幼児性といった属性は、力強く自信に満ちた権威ある(男性的)支配者としての西洋のアイデンティティを補強する「他者」の属性として、ジェンダーを越えて、二重の意味をもって機能する。本章で見てきた共作におけるオキンの「小さな飾り」に対する評価は、まさに帝国主義的な優越意識をもって、西洋が非西洋としてのアジアに向けた眼差しとけっして無縁ではない― 198 ―

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