注⑴ オキンの生没年・経歴・作品データ・展覧会履歴等に関する基本的情報は、オルセー美術館資料室及びパリ装飾美術館資料室のDossier: O’Kin; フランス国立公文書館のBase Arcade, F/21を参考にした。⑵ たとえば、Béatrice de Rochebouët, « Karl Lagerfeld, dernier adieu à l’art déco », Le Figaro, 7 mars ⑶ オキンの出自に関しては、遺族であるナタリー・ジュバン氏によって提供された資料をもとに筆者が調査を行った。本稿ではそのうち確実と思える情報のみを提示した。⑷ Vibeke Maarssø, Hvis det kan more dem, saa, Books on Demand Gmbh, 2010, p. 21.⑸ Charles Saunier, « Le 5me Salon de la Société des Artistes Décorateurs », Art et décoration, 1910/01−06, p. 130 ; « La vie artistique: Expositions diverses », Le Figaro, 24 décembre 1910, p.5; L’Art et les artistes, avril-septembre 1911, p. 36 ; Robert Hénard, « Société Nationale des Beaux-Arts: XXIVe Exposition », La Renaissance: politique, littéraire et artistique, 1914.04.25, p. 20.2003.⑹ コレクショヌール館の同時代の位置づけに関しては、Léon Deshairs (préf.), L'hôtel du だろう。5.おわりにフランスの伝統を強く意識したアール・デコの装飾においては、フランス化されたアフリカ、フランス化されたアジアを視覚化することが求められた。これに従い、当初は日本的なるものとして評されていたオキンの作品も、西欧的秩序によって消化されたものとしての、「ヨーロッパ化された極東」としてみなされるようになっていった。オキンによるモダンかつエキゾティズムに満ちた作品は、その期待に見事に応えるものだったといえよう。オキンはさらに、より独創的なアール・デコ様式の作品を共作によって生み出してゆく。しかしながらそこで実現された「小さな装飾」は、「日本特有の技芸」とされ、フランスの伝統と関連づけられるものとしての「純粋で論理的なフォルム」とは差別化されていった。こうしていわゆるモダニズムの価値観に合致するものとしての装飾性を排したモダンデザインという領域は、日本を含む「極東」の影響と切り離され、フランスの伝統として解釈されるようになっていく。ここには、純粋性、論理性、秩序ある構成を自国の伝統的価値として自負するフランスが、それを誇示し、死守しようとする意図が垣間見える。単に産業競争を勝ち抜くため、というだけではなく、世界的なナショナリズムの高まりを見たこの時期、帝国主義的な欲望を正当化するためにも、その価値をフランスの伝統として誇示することが必要だった、と言えるのではないだろうか。オキンの作品とその受容の三つの時期における変化はそのことを表している。― 199 ―
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