ナショナル・アイデンティティの拠所の一つであり、労働の場面はくり返し美術の主題となってきたが(注17)、とりわけ科学技術の発達に伴い都市が急速に開発された1920年代以降、それを象徴するモニュメンタルで英雄的な労働者のイメージが盛んに生産された(注18)。大戦間期のこうした労働者のイメージは、多様で、時に矛盾を孕むものであったことが指摘される。WPAの管轄するプロジェクトにおいて示される男性労働者が、父権的な家族観に支えられる近代社会の発展という政府のイデオロギーを代弁するものであった一方、労働組合等の左翼的な思想に基づく作例の中の男性労働者は、彼らの過酷な労働状況を告発し、それを招いたイデオロギーに異を唱える意味合いを担っていた(注19)。さらに、描かれる労働者は、しばしばその肉体的な強靭さを強調する筋肉質なセミ・ヌードで表わされた(注20)。男性のヌードは西洋美術史の中で英雄を描く際に頻繁に用いられてきたが、それには身体の理想化と適切な舞台設定が必要で(注21)、この規範を外れた身体は男性性の揺らぎを孕むものとなった(注22)。大戦間期のアメリカにおける労働者のイメージも、理想化されることにより「英雄的」な身体の強靭さを示す一方で、そのヌードは、自律した行為主体としての着衣の中産階級と対比されることで、受動的な眼差しの対象としての位置づけを逃れることができず、よって、政府のイデオロギーに対する芸術家の立場の如何に関わらず、結果としてこれらの労働者の図像は、その階級のイメージを再生産し、彼らの周縁化に加担するものであったと指摘される(注23)。ノグチの《ニュース》の5人の人物は、「労働者風の報道記者たち」(注24)という言葉に示唆されるように、筋肉を強調した大戦間期のアメリカにおける労働者の身体によって表わされている。しかし、先に確認した通り、このレリーフにおいて強調されるのは「主体的」なジャーナリストの活動であり、彼らの職種は本質的にまなざしの対象とは対照的な見る主体であることを意味する。彼らの裸体としてのあり方は、従って見られる対象としての「他者」性を意味することはなく、また労働者という階級のイメージを増強することもない。むしろ衣服を取り去ることで普遍化された彼らは、特定の階級に集約され得ないものとなっている。ルックスやドゥランソーの「他者」化された女性の身体を用いた旧態依然のレトリックによる寓意像が失敗したのに対して、労働者のたくましい身体を持ったノグチのジャーナリストたちは、現代的な道具を駆使しながら、同時にアメリカの報道の「主体性」や「自由」を象徴することに成功しているのである。― 209 ―
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