陶磁器デザインの特質、デザインの無名性と普遍性について述べてゆく。一、カイ・フランクのプロダクト・デザインカイ・フランク(1911−1989)はフィンランド・カレリア地方のヴィープリ(現:ロシア領ヴィボルグ)で、スウェーデン語を母語とする少数派フィンランド人として生まれた。国立ヘルシンキ美術学校で基礎教育を受けたのち政府奨学金を得て北欧諸国を遊学し、家具・染織デザイナーとしてキャリアをスタートさせた。その間1939年から1944年にかけてフィンランドは2度の対ソビエト連邦戦争を戦い、戦後には多数の国民の犠牲と3億ドルの賠償金支払を負った。この戦後の経済復興を担ったのが、スウェーデンのレルストランド製陶社(リドショーピング、1726−)のロシア向け製造工場として始まり、1916年に独自資本となったアラビア製陶社(ヘルシンキ、1873−、 以下「アラビア」と略称)である。デザイナーのクルト・エクホルム(1907−1975)はドイツ機能主義に強く影響を受けて「シニヴァルコ」サーヴィス(1936年デザイン〔図1〕)のような汎用性の高いデザインをもたらした人物であり、また戦後1945年、ノルディスカ・コンパニエ百貨店(ストックホルム)でアラビア製品の展示会を開催した。ところが中立を保っていたスウェーデンにおけるヴィルヘルム・コーゲとスティグ・リンドベリという2大デザイナーが率いるグスタフスベリ製陶社(グスタフスベリ、1640−、以下「グスタフスベリ」と略称)の競争力の高い優れたデザイン製品の前に酷評され、エクホルムは優れたデザイナーを招く必要性を痛感することになった(注2)。そうして1946年にアラビアに招かれたのが、フランクだったのである。エクホルムからの影響と共に、フランクは北欧近代工芸運動の原点であるスウェーデン工芸協会(注3)や指導者グレゴール・ポウルッソン(1889−1977)のデザイン思想に大きな影響を受けている。ポウルッソンによる啓蒙パンフレットVacrareVardagsvara(“Better Things for Everyday Life”, Stockholm: Svenska Slöjdföreningen, 1919)に述べられた、アーティストをデザイナーに登用して工業製品のデザインの質を向上させることで一般市民の美意識と道徳観念が高まり、また工業・芸術・社会の三者が利益を得ることができるという考え(注4)はスウェーデン近代工芸運動の理論的な母体となった。フィンランドではこうしたポウルッソンらの著作は翻訳されておらず、スウェーデン語原典を理解できる少数のスウェーデン・フィンランド人グループ内でしかその思想は共有されなかった。フランクはそうした数少ないデザイナーのひとりである。「デザイナーは社会に責任を持って奉仕するもの(注5)」というフランクの持論の原点は、このスウェーデンのモダン・デザイン運動やポウルッソンらの思― 217 ―
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