想に求めることができる。カイ・フランクの工業デザインの中でもっとも重要なものはアラビアで製作した「キルタ」サーヴィスである〔図2〕。1953年に発表したこのサーヴィスは高火度焼成された陶製でオーヴン耐熱であった。色展開は単色ホワイト・ブラック・ネイヴィー・グリーン・イエローでいずれも彩度が低く、穏やかに住空間に溶け込む効果があった。文様や装飾は一切排除され、円筒形、四角形をフォルムの構成要素とし、側面観は安定性があり直線的である〔図3〕。フランク自身が考案した “Smash theService.”(サーヴィスを打ち砕け)というコンセプト(注6)は従来の正餐用食器揃いの概念を超えて場所・用途・時間に応じて自由に組み合わせられる汎用性を指している。フランクの「キルタ」サーヴィスはグスタフスベリのコーゲが1933年にデザインした「プラクティカ」サーヴィス〔図4〕や、エクホルムの「シニヴァルコ」サーヴィス〔図1〕といった北欧機能主義の最後尾かつ、もっともすぐれた普遍性を持つデザインに位置づけることができる。また、フランクは名前が広告に出ることを拒否した〔図5〕。これはコーゲやリンドベリらとの大きな相違点で〔図6〕、デザインそのものが社会にとっては重要なのであってデザイナーが誰であるかは問題ではないというフランクの意志表示であった。すなわち北欧モダニズムの原点であるポウルッソンのデザイン理念を社会主義的な方向へ深化させたのがフランクであるといえるだろう。二、カイ・フランクの見た日本カイ・フランクは都合3回日本を訪れている。1956年、45歳のフランクは栄誉あるルニング・プライズ(注7)を受賞した後アメリカに招聘され、帰路で9月4日から約6週間、東京、鎌倉、京都、岐阜県飛騨地方、名古屋の日本陶器株式会社や、益子の濱田庄司、鎌倉の北大路魯山人、美濃の加藤土師萌、京都の河井寛次郎らを訪ねた。この時の旅の印象について、フランクは亡くなる1989年に展覧会をヘルシンキ美術デザイン大学ギャラリーで開催している。「ルニング・プライズでの日本への旅行1956─アジアにおけるひとりの異邦人─」と題したこの展覧会では、日本で見た一般市民の生活風景や農村部の写真が民芸品と共に展示されていた〔図7〕。とりわけ、古びた蛸壺を無名の日用品デザインの重要性を象徴するものとして展示していたことは、フランクの視点が市民生活と日用品デザインの普遍性にあったことをよく示しており、また、そうしたものへの強い共感を日本の日用品─柳宗悦(1889−1961)のいうところの「民芸品(注8)」へ見出していたことが分かるのである。― 218 ―
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