1958年、47歳のフランクは、優れた北欧デザイナーとして産工試に招聘され来日した。10月6日から16日まで産工試本所で行われた講習会ではドイツ工作連盟に影響を受けてはじまったポウルッソンらの運動、コーゲらによるグスタフスベリの優れた製品、戦争を挟んで20年の遅れをとったフィンランドが戦後の困窮の中で廉価で機能的な食器デザインを目指した過程が語られた(注9)。併せて行われた作品批評会では当時白山陶器有限会社デザイン室に勤務していた森正洋(1927−2005)の「G型醤油注」〔図8〕で、「キルタ」ミルク・ピッチャー〔図9〕とも共通する簡潔で明快なフォルムを高く評価している。講習会後、フランクは日本の各窯業地を見学して歩いた。この旅でフランクがもっともよく口にした言葉は「過剰な装飾」であったという(注10)。最後の日本への旅はフランク52歳の1963年8月のことで、フランクが指導するアラビアやヌータヤルヴィ・ガラス制作所の製品が北米市場で好評を博していることを受けて中小企業らが招聘したものであった。この来日をアテンドした島崎信(1932−)の印象に残っているのは、やはり日用品へのフランクの関心であった(注11)。フランク自身が記した「日本の工芸品や人生への姿勢がどうしてフィンランドのそれとよく似ているのか不思議である(注12)」という問いかけにも、「無名」の職人による日用品や高度経済成長期の日本の農村部に残っていた素朴な生活への共鳴を指摘できるだろう。また1987年、フランクが彼の弟子たちとともにデザインした「自然科学の石庭(Tieteen Taiteen Kivipuutarha)」(フィンランド教育文化省、ヘルシンキ)は明かに日本文化へのオマージュである〔図10〕。この庭はフィンランドの自然を抽象的に表現したもので、石組みには京都の竜安寺の石庭の印象があざやかに写し取られている。フランクの視線は常にストイックに、日本の古いもの・伝統的なもの・日常的なものの中で密やかに奉仕している機能デザインを追っていたのである。三、ヴィルヘルム・コーゲ、スティグ・リンドベリの来日 ─デザイン模倣問題北欧デザインと民藝運動の関係を考察する上で、さらにスウェーデンのデザイナーで陶芸家であったヴィルヘルム・コーゲ、スティグ・リンドベリの来日を以下に検討する。柳宗悦、濱田庄司(1894−1978)、式場隆三郎(1898−1965)は1929年8月、ストックホルムを訪れた際、野外民俗博物館スカンセンのコンセプトに感激し、これが日本民藝館構想の良い刺激となった(注13)。さらに1958年8月、イギリス・ダーティン― 219 ―
元のページ ../index.html#230