鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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注⑴ 前身は商工省工芸指導所(1928年−)。商工省は1949年に通商産業省となる。工芸指導所は1952年に名称変更し、通商産業省工業技術院工芸試験所となり、製造業メーカーからデザイン委託をされたり各国の工業デザインの研究調査を行った。1969年に製品科学研究所(現:独立行政法人産業技術総合研究所)へと再編され消滅。本所は東京都大田区下丸子にあった。Helsinki: Designmuseo, 2009, p. 130−156.おわりに ─デザインの無名性と普遍性をめぐって19世紀にスウェーデンから始まって北欧諸国へ広まった近代工芸運動は日常生活をより良く改善するデザインに眼目を置いていた。そのために実践されたのがアーティストたちの、分野を超えた産業への参入であった。このことこそ、ヴィルヘルム・コーゲやスティグ・リンドベリが、モダン・デザインの創出に苦しみ欧米製品の模倣へ走る日本へ助言したことであった。コーゲと民藝運動の交流は、スウェーデン工芸協会が行っていた手工芸保護と市民生活へのデザイン貢献、アーティストを使って手工芸と工業を結び付けモダンを造り出す役割を柳や濱田らの民藝運動に重ねていたゆえの親交であったといえるだろう。また、リンドベリはクラフト運動など新しい動きが参加することで日本は模倣のレベルから脱し独自のデザインを生むことができるとみた。一方でカイ・フランクは、日本の古い伝統文化や日用品の中にひそむデザインの無名性と普遍性に気付き、自身がスウェーデン近代工芸運動から学んだデザインによる社会貢献、デザインの無名性、機能主義から生まれる普遍性と重ね合わせるという、より深い理解を持っていたことを指摘できる。こうした違いの背景には製品への銘やサインをデザイナーの社会への道義的責任とするスウェーデンと、無名性こそデザイナーの真の社会献身とするフィンランドのデザイン意識の相違があった。フランクの「より良き社会構築へ奉仕するデザイン」が、日本が「民藝」の名で再評価したデザインの無名性と普遍性につながっていたからこそフランクは日本へ終生変わらぬ共感を覚えたのであると考え、本稿の結論とする。「ジャパニーズ・モダン」の胚芽はあるいはこの共通項に在るものだったともいえないだろうか。日本と諸外国の近代工芸とデザインの概念と影響関係については今後の課題としたい。⑵ Susan Vihma and Tapio Yli-Viikari, “Kilta, Teema, and Variations” ARABIA: Ceramics, Art, Industry, ⑶ スウェーデン工芸協会(Svenska Slöjdföreningens)はアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けて、手工芸技術の保護・アーティストによる手工芸品と工業製品の質の向上、優れた家庭用品による市民文化と趣味の向上を目的とする非営利組織としてストックホルムに1845年に設立された世界最古のデザイン組織である。ドイツ工作連盟(1906年結成)の理論に影響を受けて1915年には工業製品の質を向上させる方向へ目的を転換し、政府の後援を受けながら積極的― 221 ―

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