鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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⑤楷書「確亭」⑥ 「崎江(瓊浦)浄博」⑦ 「南窓翁博」⑧ 「墨翁」⑨行書「確亭」Ⅰ(「亭」の字が右上がり。最後の二画が丁の字)⑩ 「確亭農」⑪ 「光確亭・確亭光」⑫ 「寿米翁」⑬ 「五雲山人」⑭ 「紫雲主人」⑮ 「檗峰」⑯行書「確亭」Ⅱ(「亭」の字の最終画がくるんとまわるかたち)■「鶴亭」から「確亭」へ先行研究では、鶴亭は宝暦10年(1760)冬ころに「鶴亭」から「確亭」に款記を移行したとされている。筆者も「鶴亭」款記の下限はこの時期と考えている。ただ、⑤楷書の「確亭」款記は、寛延4年(1751)の「紅梅黄鳥図」「松鷹図」、宝暦4年(1754)の「牡丹岩双禽図」(いずれも個人蔵)にすでに見られる。「鶴亭」から「確亭」へのゆるやかな移行期を想定しておく必要があるだろう。また、⑯行書「確亭」Ⅱの款記は「亭」の字が略されたもので、最終画がくるんとまわる筆遣いという特徴がある。この特徴を持つ有年紀作品は天明2年(1782)・4年(1784)の制作であることから、最晩年の特徴と考えられる。■「如是主人(道人・住)」「蘭石図」(延享4年(1747)、個人蔵)や「四君子図巻」(寛延元年(1748)、個人蔵)、「紅梅黄鳥図」(寛延4年(1751)、個人蔵)の款記から、1747〜51年にかけて鶴亭は洛東に住したことが判明する。なお、印章に関しては、宝暦2年(1752)以降も二種類の「如是主人」(朱文円印)や「応如是住」(朱文方印)をしばしば用いているが、「四君子・松・蘇鉄図屏風」(宝暦11年(1761)、神戸市立博物館)以降は款記・印章とも「如是」という語を用いていない(注2)。洛東から引っ越すなど、環境になんらかの変化があった可能性が考えられる。― 228 ―

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