鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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■移行期の款記「鶴亭」から「確亭」への移行期には、「崎江(瓊浦)浄博」「南窓翁博」「墨翁」と款記した作品が見られる。なかでも、「崎江(瓊浦)浄博」に注目してみると、「鶴亭博」といった「博」のみを記した款記は、「浄博」から「浄光」へ改めるまで一貫して認められる。ただ、「崎江(瓊浦)浄博」という、長崎ゆかりの地名+浄博フルネームの款記は宝暦4〜5年(1754〜55)に集中している。これ以前に長崎ゆかりの地名を記した作品は、寛延元年(1748)の「松竹梅図」(個人蔵)の「竹図」1点しか確認していない(注3)。宝暦4〜5年ころ、長崎出身の元黄檗僧・浄博というブランドを打ち出して活動する必要があったのだろうか。実際、鶴亭は宝暦4年夏に江戸に滞在していたことが「墨竹図」(個人蔵)の款記から判明している(注4)。あるいは、このころの江戸と上方との往還がきっかけのひとつかもしれないと考えている。■浄博から浄光へ先行研究によると、鶴亭が法諱を浄博から浄光へ改めたのは宝暦11年(1761)7月(「四君子・松・蘇鉄図屏風」)から明和5年(1768)春(「山水図(残欠)」(真聖寺))の間で、この途中で「善農」と名乗った時期があることが指摘されている。明和元年(1764)の「山水図」(神戸市立博物館)や「富嶽図」(オランダ A. リッペ公爵)にそれぞれ「崎江寉亭農」「寉亭主人農」と款記されており、このころ善農と号していたことがわかる(注5)。そして、明和5年以降は「確亭(道人・主人)光」「光確亭」と款記した作品が大半を占めるようになる。■黄檗僧としての款記鶴亭は長崎・聖福寺で嗣法後、20代半ばに故あって還俗して、上方へ向かう。市井においても黄檗僧として備えた戒律を守る心を持っていたという(注6)。のち、40代半ばで黄檗僧に復し、明和5年(1768)5月22日には巡寮顕法して正式に黄檗僧として『黄檗宗鑑緑』に登録された。安永6年(1777)9月26日には黄檗山塔頭紫雲院第6代住持となり、天明3年(1783)4月5日紫雲院を退院した。安永6年ころから「五雲山人」と款記した作品が見受けられるのは、なんらかの関係があるのかもしれない。また、「檗峰」と記した有年紀作品は安永9年(1780)・天明2年(1782)の制作であり、黄檗山在住中の作品と判明する。ちなみに、安永7年(1778)3月には「隠元八十歳自祝偈」(萬福寺)の表装に「群鶴図」を描き、「安永戊戌春三月/紫雲主人海眼光欽写」と款記している。同9年4― 229 ―

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