研 究 者:神奈川県立歴史博物館 学芸員 小 井 川 理はじめに─問題の所在─平安時代、宮中の出産においては、産婦の常の居室とは別に産所が設けられ、出産時には産所の内装や調度、産婦や出産を介添えする近侍の者たちの装束すべてが白一色に改められて、白い産所が用意された。この白のしつらいは、産後七夜目に行われる産養まで続けられ、八日以後は平常の装束に復するきまりであった(注1)。『紫式部日記』には、寛弘五年(1008)、一条天皇中宮彰子の出産に際して設けられた白い産所の様子が記される(注2)。のちに「紫式部日記絵詞」(個人蔵/藤田美術館蔵)に絵画化されて、三夜産養、五夜産養、七夜産養の場面では、現状では鉛白の褪色により淡紫色を呈しているものの、中宮はじめ近侍の女房たちもすべて白い装束に身を包み、産養に寄せられた祝いの品も白を基調とした、この世ならぬ美しい空間が描き出される。出産の際に新調される調度には、産所に立て回す屏風も含まれる。『紫式部日記』に「白き綾の御屏風」と記されるそれは、その記述の通り白綾を張った屏風であったと考えられ、「紫式部日記絵詞」においても五夜産養の場面に描かれている。六曲一隻の屏風で、図様は判然としないが亀甲文が表されているようにも見える(注3)。中宮彰子が皇子を出産したこの出来事は、彰子の父藤原道長が天皇の外戚として権勢と栄華を恣にするきっかけとなった事蹟として『栄花物語』に脚色されるなど、後代にわたって広く記憶され先例として参照される出来事となった。産所の白いしつらいもまた先例として受け継がれ、白綾屏風も後代の出産において調進され続けた。一方、出産から七夜産養までの使用の後は取り払われる調度であったためか白綾屏風そのものは現存しない。出産という、産む人、産まれる人、それをめぐる人々それぞれにとって重要な営みの場にあって、生まれ出る生命への真摯な祈りを背負った調度であるにもかかわらず、白綾屏風の具体的な形状を実物資料から知ることはできないのである。本研究では、先行研究に導かれつつ、屏風を構成する材質、技法、文様という点から、白綾屏風の復元を試みたい。一 白綾屏風の形状出産の場に立て回される白屏風について、榊原悟氏は、白紙地に胡粉で松竹鶴亀を描いた江戸時代後期の「白絵屏風」(京都文化博物館蔵)の作例を考察され、その源― 239 ― 「白綾屏風」の復元的考察
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