鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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流が平安時代に遡る「白綾屏風」に求められることを指摘している(注4)。榊原氏は、伏見宮家本『御産部類記』(宮内庁書陵部『図書寮叢刊』所収)等に収められた、平安時代初期の醍醐天皇から鎌倉時代中期の貴子内親王までの天皇、皇子、皇女の出産に関する諸記録から、平安時代に産所の調度として調えられた白綾屏風の形状を分析され、それが南北朝時代の14世紀後半に紙貼りの白絵屏風へ変化していく過程を明らかにされた。まずは榊原氏の分析に白綾屏風の形状を確認しておく。榊原氏の分析によれば、すでに天暦四年(950)冷泉天皇誕生の際の七夜産養に「五尺白綾屏風」の使用が確かめられる。次いで、前項でも紹介した寛弘五年の一条天皇中宮彰子の敦成親王出産時には、白綾を張り、裏面には黒綾を張った高麗縁の白綾屏風が、五尺屏風三双、四尺屏風三双、計十二貼調えられ、三夜産養、五夜産養にも使用された。白綾屏風の形状により詳しい記述が加わるのは、元永二年(1119)の鳥羽天皇の中宮待賢門院璋子の顕仁親王出産の記事からである。この時は五尺四帖、四尺八帖、計十二帖の白綾屏風が調えられたが、桐竹に鳳凰を加えた文様の白綾を張り、高麗縁をまわし、同じ出産について記す『長秋記』によれば屏風の裏面は通例によって立湧雲文の綾を張ったものであったという。元永二年の待賢門院璋子の出産で用意された白綾屏風の形式は、乾元二年(1303)亀山上皇の後宮昭訓門院瑛子の出産時にも先例として認識されており、表面は桐竹文綾、裏面に立涌雲文織物を張った屏風の調進が計画される。しかし、実際に調進されたのは、表面は生平絹張りに桐竹文を描き、縁は高麗縁、裏面は赤地に黒で立涌雲文を摺ったものであった。経糸に対して緯糸を浮かせて文様を織り出す綾織の技法によって生まれていた白綾屏風の文様は、絹地に文様を描く、もしくは摺るという絵画的手法により実現されることとなった。次いで、永和三年(1377)、後円融天皇の後宮通陽門院厳子の出産に調えられた産所屏風は、白唐紙の地に松竹文を描いたものであった。屏風は紙本となり、文様も桐竹文ではなくなる。平安時代10世紀から南北朝時代14世紀後半まで産所の屏風形式として受け継がれていた白綾屏風は、絹から紙へ、織文様から絵画技法へ、桐竹文から松竹文へ、材質、技法、文様の大きな変化を経て、白絵屏風へと展開を遂げた。乾元二年の昭訓門院瑛子の出産、永和三年の通陽門院厳子の出産がその過渡期の事例にあたり、この二つの事例における産所屏風の調進の原理を明らかにすることが、白綾屏風の伝統の内実を考えることに繋がろう。特に、乾元二年に企画された屏風と、実際に調進された屏風― 240 ―

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