との仕様の差異こそが、白綾屏風に求められた形式を指し示すであろう。以下、乾元二年屏風から白綾屏風の形式、特に桐竹文の布置について考察し、続いて、永和三年屏風の松竹文様採用が白綾屏風から白絵屏風への画面形式の変化に起因していた可能性を試案として提示する。二 乾元二年の白屏風が継承する白綾屏風の形式 『昭訓門院御産愚記』所収「調進 昭訓門院御産御調度事」から、乾元二年に実際に調えられた屏風の仕様を確認すると(注5)、表面は生平絹張り、屏風の一扇ごとに、三寸(約9.09cm)の桐竹文を九つ胡粉で描き、縁は小文の高麗縁、蝶番部分には紅絹を用いて、裏面は赤地に墨で立涌雲文を摺り、松の文様の長さ三寸の銀の折金物を打ち、一扇の幅は一尺四寸五分(約43.9cm)、高さは五尺(約151.5cm)と四尺(約121.2cm)があった、と解釈される。白綾屏風が綾織の技法によって桐竹文を表すものであり、織文様の多くが規則正しい連続文様として織り出されることを考え合わせると、乾元二年屏風は、一扇の画面に桐竹文九つを規則正しく布置して描かれた、織文様風の外観を呈したものであったと考えられるのではないだろうか。そこで、同時代の染織資料、また絵画作品の中に現れる桐竹文様を確認してみたい。滅宗宗興(1310〜82)料として伝来した「九条袈裟」(愛知・妙興寺蔵)の田相部分には、黄地桐竹鳳凰麒麟文綾が用いられている。洲浜に生える桐竹に鳳凰が舞い降り、樹下に麒麟が遊ぶ様子を筥形にまとめた織文様で、経糸方向の長さは29.0cm、緯糸方向の長さは24.3cmをはかる。滅宗に留学経験がないこともあわせ、田相、行ともに日本製であることが指摘されている(注6)。筥形の桐竹鳳凰麒麟文様は、縦に長い長方形にまとめられており、桐一株に竹二本が沿う樹叢を左右対称に配置し、その外側に鳳凰を一羽ずつ、麒麟を一頭ずつ配置する対称性の高い文様構成である。こうした筥形の桐竹文様は、足利義政が長禄二年(1458)に熱田神宮に奉納したとされる神宝のうち「上表着 萌黄地小葵桐竹鳳凰模様二陪織物」(愛知・熱田神宮蔵)にも見られる。文様は、洲浜の上に桐二株、竹二本が生え出て、その上に鳳凰が二羽舞い降りるもので、小葵文様の浮織物地に、紫と薄紫、黄の縫取織で桐竹鳳凰文様を表している(注7)。桐、竹、二羽の鳳凰からなる文様は左右対称の筥形をなし、左の鳳凰と右の桐の花葉、右の鳳凰と左の桐の花葉の組み合わせで織糸の色を反転させることで文様の変化を生んでいる。絵画作品中に描かれる装束にも桐竹文様を見いだすことができる。文様を生み出す― 241 ―
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