技法については判断しかねるものの、文様の形式については大まかにとらえることができる。鎌倉時代14世紀の制作とされる「天子摂関御影図巻」高倉天皇像(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)では、天皇の着する袍に、洲浜に桐と竹が生え、二羽の鳳凰が飛翔する筥形の文様が表されている。また、画中の墨書に元久四年(1204)に夢に現れた清滝権現の姿を写したとの記述と、掛幅背面に夢中像を弘長二年(1262)に絵画化したとの供養銘を持つ、鎌倉時代13世紀の「清滝権現像」(東京・畠山記念館蔵)では、清滝権現の着する裳に地面から生え出る桐と竹の樹叢が文様として描かれている。足先から膝ほどの高さまで達する大ぶりな桐竹文であり、自然な枝の広がりは筥形の規矩によらない描写である。桐竹文が大ぶりである点は、文様を構成するモチーフは異なるものの、延慶二年(1309)に制作された「春日権現験記絵巻」巻第二(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)、春日社への白川上皇御幸場面の供奉の人々が着す東遊の袍に見られる、地面から生え出る桐竹の樹叢と野鳥を左右対称に組み合わせる文様と通ずるものでもある。一方、掛幅背面の制作銘の写により建長八年(1256)の制作がわかる「四聖御影」(奈良・東大寺蔵)では、聖武天皇の着する袍に金泥で桐竹に鳳凰の文様が描き込まれている。筥形に組まれた文様ではなく、袍全面に展開する連続文様であり、13世紀に筥形とは異なる桐竹文の表現があったことを示している。布地全面に展開する桐竹文は、長禄二年足利義政奉納と伝わる神宝のうち「重袿 白地桐竹鳳凰唐草模様固地綾」(愛知・熱田神宮蔵)の、伸展する唐草風の桐竹に鳳凰を配した文様構成にも通ずるものと言えよう。これらの例に照らして乾元二年屏風の桐竹文様の記述を見ると、三寸の桐竹文を九つ、一扇の幅一尺四寸五分、高五尺の画面に配置するとある。文様を布地全体に連続して展開する「四聖御影」のような桐竹文というより、滅宗宗興料「九条袈裟」のような筥形文様が規則正しく配置されたものを想定すべきであろう。屏風一扇の寸法や、その中に布置するべき文様の数と寸法を把握する記述のあり方は、文様の規則正しい配置を重視したものと言えるだろう。胡粉で描くという絵画的な手法を用いてはいても、文様の布置には綾織の桐竹文様を踏襲しようとする意識がうかがえる。同様に、本来、立涌文を織り出した織物を張っていた裏面を、赤地に墨で立涌文を摺って仕上げる点にも、「織り」による文様の規則性や連続性を「摺り」を用いて同一文様を繰り返し画面に作り出すことで再現しようとする意識が汲み取れる。乾元二年屏風で綾が平絹に替えられ、裏面も織物ではなく綾に替えられた理由については倹約のためであったと榊原氏が指摘しているが、綾織ならではの織文様がかな― 242 ―
元のページ ../index.html#253