わなくなった時に、織文様風の仕上げを実現する手段として、「描く」「摺る」といった絵画的手法が選択されたものと考えられる。乾元二年屏風は、材質の点からはもはや白綾屏風とは言えない。しかし、調進の姿勢には、元永二年の待賢門院璋子の出産で用意された白綾屏風の形式を志向したことがうかがわれ、その点において、白綾屏風の伝統を濃厚に受け継いだ屏風であったと言えよう。三 松竹文の白絵屏風が獲得した画面形式永和三年、後円融天皇の後宮通陽門院厳子の出産に調えられた産所屏風が白唐紙の地に松竹文を描いたものであったことは、先に述べた。前項で考察の対象とした乾元二年屏風から70年余が経つ間に、産所屏風の文様選択にどのような変化が生じたのか定かではないか、ここに至って、近世の絵画作品に産所屏風の形式として一般的に描かれるようになる、松竹文の白絵屏風の成立を見る。榊原氏の指摘によれば、室町時代15世紀には、鶴亀、あるいは松竹鶴亀を描いた白絵屏風が産所に立て回す屏風として使用されていたことが諸記録からうかがえる。永享六年(1434)2月9日、六代将軍足利義教の子・千茶也丸の誕生に際しては、大小二双、白で鶴亀を描いた「白絵屏風」が産所の調度の一つとして整えられた(『御産所日記』)。また、室町時代の幕臣伊勢貞陸(1463〜1521)著『産所之記』にはその詳細な仕様が記され、白紙貼に雲母で松竹鶴亀を描き、背面には雲母にて亀甲文を刷り、練絹を用いた縁には同じく雲母にて亀甲文を描くとされている。貞陸の記した屏風の仕様は、江戸時代中期に伊勢流故実を大成する伊勢貞丈(1717〜84)の『産所法式』においても、白紙貼り、胡粉塗りの地に雲母で松竹鶴亀を描き、背面も白地に雲母で亀甲形を描く屏風として継承される。そして、産所の舗設についての伊勢流故実が、徳川幕藩体制下、新たに整備された武家儀礼として、諸大名家に伝播した形跡も確認される(注8)。一方、桃山時代の作とされる「源氏物語図扇面」(個人蔵)を早い例として、江戸時代にかけて、松竹文の白絵屏風を産所屏風として描く絵画作品が数多く確認されるようになる。17世紀初頭の狩野探幽筆「東照宮縁起絵巻」(栃木・日光東照宮蔵)では、松平広忠夫人・於代の方の出産場面に立て回されるのは、松竹鶴亀を描いた屏風であった。このとき産まれたのが後の徳川家康であり、徳川将軍家にとってはきわめて重要な場面と言える。於代の方はじめ近侍の女性はすべて当世風俗ではなく、王朝の女房装束を着して描かれており、その図像や構図が、南北朝時代14世紀の旧堂本家本「聖徳太子絵伝」(個人蔵)の聖徳太子誕生場面や、室町時代16世紀の「多武峯縁― 243 ―
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