鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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起絵巻」(奈良・談山神社蔵)の藤原鎌足誕生場面に通ずることが指摘されている(注9)。「東照宮縁起絵巻」は探幽本以後、複数の別本が制作され、その一部には探幽本同様の家康誕生場面が継承される。また、江戸時代には、土佐光祐筆「栄花物語屏風」(東京国立博物館蔵)右隻「初花」場面、「住吉の本地」(大阪歴史博物館蔵)中巻の応神天皇誕生場面に見られるように、白絵屏風成立以前の物語や事蹟の絵画化においても松竹鶴亀文白絵屏風が図像として採用され、出産場面の表象として機能している。白綾屏風の手がかりの少なさに比べ、白絵屏風に関わる情報の多さは、武家儀礼の規範性とそれを規定するテクストとしての故実書、規範性を裏付ける幕藩体制という大規模な社会秩序の中で、白絵屏風が、家康誕生場面を荘厳する装置として、さらには出産場面の表象として、広く認知されたことを物語っていよう。先例として認識されながらも出産習俗としてのみ受け継がれた白綾屏風の限定的な規範性に比べ、白絵屏風のそれはより組織的、社会的、思想的で、大規模かつ強固なものであったとも考えられる。ここで、松竹鶴亀文白絵屏風が広範に認識されていく前史として、白綾屏風の桐竹文が松竹文に展開した背景について、一つの試案を提示したい。前項では、乾元二年屏風が志向した白綾屏風とは、織文様の規則性と連続性に支えられ、筥形の桐竹鳳凰文を画面に均等に配置したものであったと考察した。一方で、白一色で調えられる産所屏風という枠組みを離れると、中世には桐竹図屏風の伝統が他にも存在している。中世の桐竹図屏風については、泉万里氏により、石清水八幡社の神宝屏風についての記録に、その詳細な形状が確認されることが指摘されている(注10)。その指摘によれば、13世紀初め、元久元年の諸道具目録の記述によれば、高さ五尺、一扇の幅一尺六寸の「御屏風六貼」つまり六隻があり、それは綾を貼り、紺青緑青により竹桐を描いたものであった。目録には、綾貼りに紺青で竹桐鳳凰を描いた障子も記載されている。さらに、ほぼ一世紀の後、建武五年(1338)七月の石清水八幡社の火災に際して失われた神宝類を記録した被災目録には、「御屏風六双〈表裏絹、絵桐竹鳳凰〉」との記述があり、絹地に桐竹鳳凰を描いた六双(十二貼)の屏風が存在していたことが知られる。後に神宝屏風は新調され、諸記録の挿図から、六曲屏風の各扇に桐竹と一羽の鳳凰を描くものであったとわかる。さらに、泉氏は、13世紀後半に成立した「蒙古襲来絵巻」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)の画中画として描かれた障子にも細く立ち上がる二本の竹と桐の木、横向きに飛翔す― 244 ―

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