鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
256/625

る鳳凰が描かれていることから、こうした画面形式が中世の桐竹鳳凰図屏風の形式であったことを指摘している。泉氏の指摘に加え、元亨三年(1323)頃の成立が指摘されている「聖徳太子伝絵巻」(茨城・上宮寺蔵)では、第十二段、太子36歳の時の勝鬘経講讃場面、太子後方の壁面に、隣り合う二面を一画面として、地面から生え出る桐竹を青緑により描いた障子が見える。桐竹図障子は、室町時代後期の作と考えられている「聖徳太子絵伝」(三重・上宮寺蔵)第四幅の勝鬘経講讃場面にも認められ、こちらでは障子一面を一画面として桐竹図を描く点が異なるものの、真宗の聖徳太子絵伝における勝鬘経講讃場面の調度の図像として継承されていることがわかる(注11)。織文様の桐竹文による白綾屏風が、胡粉や雲母による松竹文の白絵屏風へと変じていく流れの一方で、着彩の障屏画においては桐竹図の屏風や障子が描かれていたと考えられる。そうした屏風や障子の桐竹図は、そもそも大きな画面を用意されており、白綾屏風が持っていた織文様の規則性や連続性といった規範とは無関係に、与えられた大画面に一つの図様を展開し得る前提の下に絵画表現がなされている。よく知られているように、桐竹鳳凰文様は、平安時代以来天皇が即位礼に着用する黄櫨染の袍の文様としても用いられる格の高い有職文様である(注12)。それは、善き天子によって治まった世には鳳凰が現れ桐の木に宿りして竹の実を食すという瑞兆思想に因むものでもある。推論を逞しくすれば、産所屏風が白綾屏風の形式を離れ、白絵という絵画技法による屏風へ展開してきたとき、一方で、描き続けられていた着彩の桐竹図が抱える意味内容の束縛を回避し、出産の場にふさわしい図様を模索した結果選択されたのが松竹文であり、桐竹文に組み合わされた鳳凰や麒麟に対応するように、鶴や亀が選ばれたのではないだろうか。松竹鶴亀文は、瑞祥の意味を桐竹鳳凰麒麟文と通じつつ、常緑の姿に長生の意味を強め、生命の誕生にふさわしい文様選択と言える。そうした文様の変化に対し、産所屏風としての伝統を形の上から支えたのが、雲母や銀の光輝をまとった白による表現を継承することであったと考えられる。おわりに白綾屏風から白絵屏風へ、その変化の内実は、綾織の絹本から紙本へ、織技法による文様の表出から絵画技法による図様の描出へ、桐竹文から松竹文へ、材質、技法、文様に大きな変更を生じた劇的なものであった。その過渡期に制作された乾元二年屏風をめぐる様相からは、白綾屏風に求められる形式として、綾織の織文様の規則性と連続性が志向されていることを考察した。屏風の表裏双方に及ぶ織文様への志向は、― 245 ―

元のページ  ../index.html#256

このブックを見る