鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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注⑴石村貞吉『有職故実』上・下、講談社学術文庫、昭和31年(初版)。中村義雄『王朝の風俗と文様の織り出された綾地そのものをそのままに屏風の外観として用いようとする意識に通じていよう。一方、白唐紙に松竹文を描く永和三年屏風は、もはや白綾屏風の織文様による造形性は薄れ、大画面に松竹鶴亀図を描き出す絵画としての造形性を志向するものであった。しかし、形の変化を生じながらも、白という色の選択は強固に保たれ、産所屏風に求められた清浄性は確かに受け継がれることとなった。白綾屏風から白絵屏風へという変化は、産所屏風という機能を継承することによって、調度から絵画へ、造形の領域をゆるやかに越境し受け継がれた美術が存在したことを伝えるものであると言えよう。成22年。作品分析及び解説は山川暁氏による。文学』塙選書22、塙書房、昭和37年(初版)。⑵『紫式部日記』寛弘五年九月『新日本古典文学全集 26』所収、小学館、平成6年(初版)。⑶なお、個人蔵本「紫式部日記絵詞」の五日産養の場面には、第三段・中宮への御膳進上の場面と、第四段・御膳進上の後女房たちが憩う場面との間に二つの画面が入り込んでいる。このうち前半の画面に描かれる屏風について、泉万里氏は白綾の屏風である可能性を指摘されている(泉万里『光をまとう中世絵画 やまと絵屏風の美』第1章、角川叢書37、角川学芸出版、平成19年)。しかしながら、泉氏が指摘した場面は錯簡とされる部分で、「日記」の場面としては式部が中宮彰子に『楽府』二巻を進講する場面と考えられている。中宮の出産とは別の出来事で、居室の調度、中宮や式部の装束も白一色の産所用ではなく、この屏風を白綾屏風と判断することは難しい。上記論考以前に泉氏が指摘されていた、唐草文の雲母刷りに墨絵で浜松図を描き、金泥で「久」「すみよしの」の葦手文字を添えた唐紙屏風とみるのが妥当ではないかと考える(泉万里「中世屏風の雲母と金銀」『國華』1197号、平成7年)。⑷榊原悟「白絵屏風考証」『日本美術史襍稿 佐々木剛三先生古稀記念論文集』所収、明徳出版社、平成10年。同「屏風=儀礼の場の調度─葬送と出産を例に」『講座日本美術史 第4巻 造形の場』所収、東京大学出版会、平成17年。⑸乾元二年の昭訓門院の出産時に実際に調えられた産所調度については、『昭訓門院御産愚記』所収「調進 昭訓門院御産御調度事」に記され、屏風十二帖についても記述がある。以下、榊原氏前掲注⑷論考の引用による。 御屏風十二帖 五 尺四帖 面生平絹、桐竹ヲ一枚別ニ九書之(三寸、胡粉)、縁小文高麗(一寸三分)以紅絹番之、裏赤色立涌ノ文墨摺ル、織物赤色之由歟、打折金物、銀、文松(長三寸)平三打之、弘一尺四寸五分、高五尺 四尺四帖 同上⑹京都国立博物館『ころもを伝えこころを繋ぐ 高僧と袈裟』展覧会図録、京都国立博物館、平⑺東京国立博物館・九州国立博物館『国宝 大神社展』展覧会図録、NHK・NHKプロモーション、平成25年。作品分析及び解説は小山弓弦葉氏による。なお、文様の詳細については、高田― 246 ―

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