鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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(深省)の焼物の輸送に関する内容を持つものがいくつかある。研 究 者:根津美術館 学芸第二課長  野 口   剛1 はじめに 光琳書状における長崎尾形光琳(1658〜1716)自筆の書状には、自らの蒔絵や屏風の斡旋、あるいは乾山たとえば、山根有三氏が「光琳の自筆書状と解説」において最初に掲げられる書状は(以下、書状1。同様に以降、光琳の書状は同論文に掲げられた番号で示す)、「貴公様」の世話で「御となり様」から金子を下されたことの御礼につづいて、印籠や長重硯箱の売り込み、さらには「なかさき」に送りたいと思っている「ひようふう(屏風)」について、取り急ぎ「もやう(模様)」を遣わすべきところ、まずは「御となり様」のお目にかけてもらいたい旨を記す(注1)。また書状4は西村正郁という人物宛てのもので、「長崎」に送る「乾山やきもの」ができたので、「十一屋殿」に相談したうえで、外箱の手配や、やきものが船中で割れないように藁をよく詰めるよう指示したものである。書状1は「閏二月廿三日」の日付から元禄10年(1697)もしくは正徳6年(1716)のものとなるが、山根氏は書風から元禄10年と推定され、一方の書状4は、こうした輸送時の梱包にいまだ不慣れな様子から、乾山が元禄12年に開窯して間もなく、同13〜14年を想定されている。加えて山根氏は、書状1の宛先、「貴公様」は、やはり西村正郁ではないかとされる。さて、ここに出てくる「なかさき(長崎)」は、当然のことながらながく、肥前長崎をさすものと理解されてきた。対して、リチャード・ウイルソン氏はそれを江戸の霊巌島にあった長崎町とする見方を示され(注2)、また本研究助成申請後に公刊された著書において、内田篤呉氏がそのことをさらに詳細に指摘された(注3)。また内田氏は、光琳が書状を宛てた西村正郁を、江戸長崎に出店を持つ京商人ではないかと推測された。肥前長崎の文化的重要性は無視できないが、江戸にやはり長崎町と名付けられた場所があって唐物や陶磁器などを扱う店が軒を連ね、また上記2通とは別に、西村正郁に宛てて江戸からの注文で硯箱を作った旨の書状もあり(書状5)、光琳の屏風や乾山の焼物がもたらされる先は江戸である可能性が高い。本研究も霊岸島長崎説を支持するものであり、その歴史的背景を補足したうえで、これらの書状にうかがわれる事― 248 ― 光琳画業の研究─作品の「流通」および「伝来」の観点から─

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