鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
260/625

柄を、光琳の画業に照らして意味づけようとするものである。副題に「流通」という言葉をあげた。流通にはいくつか意味があり、「広く世間に流布する」といった意もあるが、ここでは「貨幣・商品などが市場で移動すること。特に、商品が生産者から消費者まで移動すること」(『大辞林』)という意味で使う。具体的には、一連の書状が書かれた当時の光琳の居場所である京都=上方から江戸への作品の移動、流通ということを問題とする。副題にさらに「伝来」という言葉を添えたのは、京都にあった晩年の光琳の代表的な作品のいくつかが、江戸に藩邸を持つ大名家の所蔵であったことを鑑み、やはりそこに作品の移動という側面が備わっていると考えたゆえである。ここでは、そうした江戸における作品の伝来に連なってゆく、光琳初期の画業における江戸との関わりについて言及する。2 上方と江戸における道具の流通⑴ 江戸の長崎町と唐物屋、道具屋、瀬戸物屋陶磁器や蒔絵の漆器、屏風といった美術的な価値や調度的な価値、あるいは場合によって骨董的な価値をあわせ持つ品々、すなわち道具の、江戸時代における流通を考える手がかりとして、まず「唐物屋」と称される商人に注目しよう。右渡世向之もの共ハ、唐物新渡上方表より仕入荷物廻船積合、荷物引受、其外玉類・道具類・唐紅毛物等、上方仕入品之外、市中拂物等買受、又は上方筋を始、諸國道具屋共江之取引いたし、唐物道具類新古共商賣致し候もの共これは、『諸問屋再考調』と一括される行政文書の一節である(注4)。老中水野忠邦の主導により、天保12年(1841)から翌年にかけて廃止された株仲間、すなわち諸問屋の組合を、嘉永4年(1851)以降再興することになった際の調査にかかわる一件書類であるが、各種商売の沿革に関する文書なども収めた、近世商業史研究の重要資料である。掲出したのはそのうちの第8冊「八品商売人再興調」の一部である。八品商売人とは、質屋、古着屋、古着買、小道具屋、唐物屋、古道具屋、古鉄屋、古鉄買という八種類の商人を指す。八品商売人の問屋組合成立は享保年間(1716〜35)にさかのぼり、そのときすでに15組、128人もの唐物屋が江戸には存在した。冒頭「右渡世向之もの共」は唐物屋を指し、その業務内容として新渡の唐物道具の上方からの仕入、市中の払い物の買取、上方をはじめとする諸国の道具屋との新旧唐物道具の取引の三つをあげる。同時代における唐物屋の定義として貴重なこの一文から、それが、新しく中国からもたらされ、上方の長崎問屋を経由して仕入れた唐物を― 249 ―

元のページ  ../index.html#260

このブックを見る