取扱商品の中心としつつ、一方で払い物、すなわち不要になって売りに出された品々の買取や、諸国の道具屋との取引を行っていたことがわかる。古物を扱うことから上記商人たちと同じ組合に含められたのであるが、払い物の多様性を考えれば中国や紅毛=オランダの製品のみが唐物屋の取扱商品ではなかったことも明らかであり、ことに上方の道具屋との取引という点で、唐物屋が、江戸と上方における道具の流通にかかわっていたことが注意をひく。こうした18世紀以降の江戸の唐物屋の前身は、江戸に商いを広げた上方の唐物屋であった。17世紀の唐物屋の実態については岡佳子氏の研究が詳細を極める(注5)。岡氏は、鳳林承章などのもとに出入りしていた大平五兵衛をはじめ、江戸初期の唐物屋の動向を丹念に追って、彼らが大名家における道具需要の活性化を背景に江戸通いをするようになり、ついで江戸居住の唐物屋が生まれる道筋を想定された。江戸下りの唐物屋が中心となって店を連ねたのが霊巌島(現在の中央区新川一丁目と二丁目)の長崎町であった。埋め立て地である霊巌島は、繋船地としての特性を生かし、さまざまな種類の上方からの「下りもの」を扱う商人が集まった(注6)。貞享4年(1687)刊行の『江戸鹿子』巻6「諸職名匠諸商人」は、その「霊巌嶋長崎町」に6人の唐物屋が店を構え、その一人が大平五兵衛(おそらくはその二代目)であったことを教えてくれる。ところで、『江戸鹿子』の記述は、元禄5年(1692)刊行の『諸国万物調方記』や同10年刊『日本国花万葉記』にも踏襲されるが、後者の「巻七之上武蔵国」のうち「諸職御公向名匠商人」において、大平五兵衛は「唐物屋」に加えて「小道具屋」とも冠されている(注7)。唐物屋と小道具屋、ひいてはおそらく道具屋も、行政的には厳密に区分されるべきものであったとしても、これら商人たちの取扱商品の境界はときに揺れ動き、その棚揃えも変化したようである。同じく唐物屋とゆかりの深い商売に瀬戸物屋がある。正徳元年(1711)の「唐船貨物改帳」からも(注8)、新渡の唐物に中国製の陶磁器が多数含まれていたことはいうまでもなく、また、京都三条に居住した唐物屋・大平五兵衛は仁清の焼物も扱い、またその先祖は瀬戸物屋であった可能性が高いことが、岡氏によって指摘される。『江戸鹿子』巻4は、霊巌島には唐物屋のほかに古道具屋や小道具屋、そして瀬戸物屋が多くあると伝える。霊巌島は、上方と深い関わりをもつさまざまな道具が商われる場所であったのである。さて一方、京都においても、たとえば光琳周辺だけみても道具屋と思われる人々が数多く見いだされる。おそらく元禄7年(1694)前後に光琳が宗達勝手屏風や信楽の― 250 ―
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