鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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花入を売却し、蒔絵の莨盆などを購入した亀甲屋喜七をはじめ(注9)、また一連の自筆書状のうち、光琳が絵の斡旋を依頼する橘屋伊兵衛は(書状16)、山根氏の指摘のとおり、銀座役人の中村内蔵助らの闕所にともなう入札に参加して落札していることから道具屋と見られ(注10)、また探幽の「太公望唐松猿猴図」三幅対の分割譲渡の仲介をなした高林徳斎は(書状22)、同じく入札に参加している鏡屋(押小路)徳斎と同じ人物である可能性がある(注11)。西村正郁が、光琳の蒔絵や屏風、乾山の焼物など同時代の道具を幅広く扱っているのはすでに見たとおりであるが、さらに、元禄15年(1702)頃にやはり光琳に屏風の発注をしている茨木(茨木屋)彦兵衛も(書状7、8)、山根氏は銀座関係者を想定されるが、江戸店を持つ商家の関係者であったかもしれない。江戸における上方文化の集散地として機能していた霊巌島長崎町と、一方で、歴史的に道具にあふれた京都、そして双方において和物唐物、新旧取り混ぜて道具を取引する唐物屋、道具屋、瀬戸物屋といったさまざまな商人たち。こうして見ると、17世紀末葉から18世紀はじめにかけて、『江戸鹿子』が刊行された貞享4年(1687)頃から唐物屋が行政の管理下におかれるようになる前の享保年間初年までを目安とする時期は、上方と江戸における道具の流通をめぐる環境が整い、活性化した時期であるという印象を受ける。そしてそれは、まさに画家としての光琳の活躍年代に重なる。画業初期の光琳作品の江戸への流通は、そうした道具市場の制度的な成熟の徴候として見ることもできそうである。3 上方と江戸における道具の流通⑵ 船荷としての道具では、道具は具体的にどのように京都から江戸に運ばれたのか。ささやかな考察を加えたい。上方と江戸の間における大量輸送を支えたのは廻船であった。先の唐物屋の定義にも、上方で仕入れた新渡唐物を廻船に積み合わせ、その荷物を引受けるとある。ここでの廻船とは、いわゆる菱垣廻船を指すと見られる。というのも、当該の一件書類には寛保2年(1742)の年記を持つ「十組支配菱垣廻船江致積合候者共人數書上」という名簿が掲載され、「瀬戸物商賣」の万屋佐右衞門と伊世屋三郎兵衞、「唐物商賣」の山本三九郎と墨屋勘三郎の名もあがる。十組とは十組問屋、元禄7年(1694)江戸の荷受問屋が組織した組合、仲間である。十組問屋の目的は、上方と江戸の間の商品輸送を担っていた菱垣廻船を支配することであった。唐物屋たちの取扱商品もやがて十組問屋の支配下にうつされたようであるが、ここ― 251 ―

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