では、船荷としての道具という側面に眼を向けてみよう。高価な織物は海難の危険のある菱垣廻船ではなく飛脚問屋が請け負ったとされ(注12)、同様に価値の高い唐物道具は陸送であったと考えられるが、しかし江戸における需要の高まりとともに、唐物をふくむ道具の一部も、制度化された流通ルートにのって海上を東に向かった可能性がある。ことにそもそも陶磁器の場合、ある程度の量になると陸上輸送ではまかないきれない。乾山焼の梱包に関する記述は、そうした上方、ひいては大坂と江戸の間を海上輸送される船荷としての乾山焼を垣間見せる。長崎町を介して江戸で販売するため、藁で丁寧に包んで荷造りして、廻船に積み込もうとしているのである。ときすでに十組問屋も発足し、瀬戸物を扱う荷受問屋も生まれていた。正徳5年(1715)初演の近松門左衛門作の浄瑠璃『生玉心中』における、乾山焼が大坂の陶器問屋に仕入れられてから中国地方のお屋敷へ売られてゆく、よく知られる一節をさきがける状況が生まれていたのである。では、光琳の屏風の場合はどうか。正徳4年(1714)における、大坂から諸国へ出荷された商品の点数と代銀をまとめた「従大坂諸国江遣候商売物員数并代銀寄」は、資料性については一定の留保が必要なものの、集散地としての大坂を数量的に考えるための手がかりとなる(注13)。そのなかに「仕立屏風」214点、価銀22貫968匁の記載を見る。ほかに「屏風骨」10点、18匁があがるので、仕立屏風とは完成品としての屏風であろう。ちなみに「万塗物道具」「焼物」「長崎下り万商売物」は、いずれも点数は不記載であるが、それぞれ価銀は2,839貫676匁、1,574貫219匁、395貫644匁である。もとより、屏風の214点、22貫というのは、絵という付加価値がついた屏風の代価としては考えられない数字である。同じく正徳4年の中村内蔵助ら銀座年寄4人の闕所にともなう道具落札では(注14)、屏風については雪舟山水屏風の10貫503匁を最高に、土佐雪松屏風は5貫839匁、一番安い尚信屏風でも1貫10匁5分で、無地の鍍金屏風押(金箔押屏風)が70匁である。ちなみに掛軸の光琳昔噺は135匁7分で、この時点における光琳の評価を計ることができる(注15)。ひるがえって、上記の資料が江戸のみではなく日本各地への出荷を統計していることも含め、光琳が絵を描いた屏風の江戸への流通経路をそこにあてはめるのは正直難しいといわざるをえないのであるが、しかし、屏風が上方の商品として流通システムにのっていたことは、わずかにうかがうことができよう。大量生産品でもなく、また重量も小さい蒔絵の輸送については、さらに具体的な状― 252 ―
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