鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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況が明らかでない。京都から江戸への道具の流通、その具体的な方法についてはまだ不明点が多い。しかし一方で、乾山焼の梱包についての指図は、かかる品々の輸送に関して光琳に一日の長があることも予想させる。課題は多いが、規模の大きな業者ではない、市井のいわば手工業者である光琳や乾山の商品が京都から江戸にもたらされた背景に、やはり17世紀末期から18世紀前半にかけての問屋組織や海上輸送の制度のシステム化といった、商業史上の変革を考慮してゆくことは無為なことではあるまい。4 流通する道具としての屏風と光琳初期の画業以上の背景的な考察をふまえ、あらためて書状1を光琳の具体的な画業に照らしてみたい。光琳が元禄10年という時点で江戸をターゲットにしている事実は、元禄12年に開窯した乾山が同じく江戸に向けて商品を輸送しようとしていることとあわせて、あらためて注目される。生家・雁金屋の斜陽化を目の当たりにする一方、さまざまな商人が続々と江戸に出店する状況を傍目に、京都と江戸の商業規模や経済的な格差は呉服商の子であった光琳に強く実感されたに違いない。前述のごとき道具屋とのつきあいも、もとより自らの利を求めるためであるが、一方でマーケットというものへの関心の高さが道具屋とのネットワークづくりに作用したともいえる。家計破綻ぎりぎりの状況を自ら体験し、市場動向にも敏感な光琳であったからこそ、江戸へのまなざしが生まれたと想像できる。そうした光琳が、江戸向けの作品として、ほかでもない「屏風」を選んでいる点をめぐっては、さらに多角的な考察が可能である。光琳の現存最初の作例は、まさに書状1と同じ元禄10年頃の作と推定される「十二ヶ月歌意図屏風」〔図1〕である。室町時代の畠山匠作亭詩歌をもとに絵を描き、鷹司兼煕から近衛家煕にいたる十二人の貴族が和歌を揮毫した、瀟洒な味わいに満ちた佳品である。その制作の動機について明らかな証拠は無いが、藤原定家が詠じた同じく十二ヶ月の花鳥図を山本素軒が描き、十二人の公家が和歌を書いた屏風が、元禄16年(1703)東山天皇の命で制作され、京都所司代・松平信庸の江戸下向に際して下賜されたことを考えると(注16)、光琳の屏風もまた大名家等への贈答品であった可能性をのこす(注17)。乾山焼の流通を端的に物語る江戸の大名屋敷跡からの出土品のなかに、鳴滝窯を代表するヒット商品「定家詠十二ヶ月和歌花鳥図角皿」が見いだされることも注目される(注18)。これら和歌賛をともなう作品は、公家的な文化の香― 253 ―

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