鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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の花びらのかたちにいたるまで徹底的に「模様」が練り上げられ、しかもその結果として、屏風の前にたつとさまざまな視角の設定や空間の奥行きを感じさせる。異論もあるが、折り曲げたときの強烈な三次元性も否定しがたく、屏風の構造体も十分に勘案したデザインである。もとより、これらの作品が江戸に流通したといっているわけではない。「十二ヶ月歌意図屏風」からわずか数年で「秋草図屏風」、そして「燕子花図屏風」が生まれる過程を、江戸への流通も契機となって、ありきたりな公家風=京都風ではない、清新な「模様の屏風」というコンセプトが光琳のなかに芽生え、それが結実したプロセスとして仮定するものである。ふりかえって、書状1に蒔絵と屏風が併記される事実は、あらためて、光琳において工芸と絵画の制作が地続きであることを認識させる。ことに屏風は、光琳にとって大切なフォーマットだった。光琳の場合、掛軸や巻物と、屏風や扇面などの画風・表現には根本的な違いがあるように感じる。ごく単純な例であるが、たとえば伊勢物語の「八橋」主題は、掛軸の「伊勢物語八橋図」(東京国立博物館蔵)では物語の内容がある程度叙景的に描かれるが、「燕子花図屏風」や「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)では人物、さらに前者では橋さえ省かれ、それは「八橋蒔絵硯箱」(東京国立博物館蔵)の意匠と軌を一にする。現在掛軸の「燕子花図」(大阪市立美術館蔵)ももとは小襖(地袋)であったといわれる。調度としての性格が強い襖や扇面、そしてなにより屏風は、光琳が、工芸品に対するのとほとんど変わらない感覚で意匠的な能力を発揮できる、いうなれば「器物」であったのではないか。そして、工夫をこらした意匠と技法が盛り込まれた屏風は、同様に拵えられた蒔絵などとともに、道具として江戸に流通するのである。5 おわりに宝永元年(1704)光琳は自ら江戸に下向する。それを可能ならしめたのは中村内蔵助を中心とする銀座役人のパトロネージであったのは間違いなく、江戸に到着して早々「菊之絵屏風一双」の注文がなされたのも(書状10)、彼らの働きかけがあったためと考えることは可能である(注19)。しかし、おそらくは内蔵助と知り合う以前の元禄10年(1697)頃からすでに、光琳が道具屋を介して江戸長崎とパイプを持っていたとするなら、江戸における新規の絵の注文を京都時代以来のパトロンの差配にばかり帰することは無理がある。当初、光琳が居住した銀座屋敷のあった京橋一丁目と霊巌島は八丁堀をはさんで至近でもあっ― 255 ―

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