鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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注⑴ 山根有三「光琳の自筆書状と解説」『光琳研究一』中央公論美術出版、1995年、66〜110頁⑵ リチャード・L・ウイルソン・小笠原佐江子『尾形乾山 全作品とその系譜』第3巻研究編、た。京都においてもそうであったように、光琳は、江戸でも長崎町の唐物屋や道具屋たちと積極的に関わったに違いない。そしてそれによって、江戸における販路を開拓すると同時に、あるいはそれが、帰洛後の江戸とのつながりの一回路ともなったのではないだろうか。そして、江戸下向直後の「菊之絵屏風」こそ、「秋草図屏風」、そして「燕子花図屏風」の延長線上にある作品であったことは想像に難くない。それは、京都時代に江戸に向けてつくった「模様の屏風」を、江戸で再現するものでもあった。2012年1975年、140〜167頁雄山閣出版、1992年、125〜126頁⑶ 内田篤呉『光琳蒔絵の研究』中央公論美術出版、2012年、215〜222頁⑷ 拙稿「『諸問屋再興調』に見る江戸の唐物屋」『実践女子大学美学美術史学研究紀要』26号、⑸ 岡佳子「寛永文化のなかの唐物屋─美術商の起源をめぐって」『美術商の百年 東京美術倶楽部百年史』株式会社東京美術倶楽部・東京美術商協同組合、2006年⑹ 西村真次「霊岸島の地理的な展開について」『日本文化史点描』東京堂、1937年⑺ 文政7年(1824)に刊行された『江戸買物独案内』にも、「小道具唐物屋」という言葉を見いだすことができる。⑻ 山脇悌二郎『近世日中貿易史の研究』吉川弘文館、1960年、146〜163頁⑼ 山根有三『小西家旧蔵光琳関係資料とその研究』中央公論美術出版、1962年、124〜126頁、文書番号97〜99⑽ 「銀座諸道具落札」『国宝』第5巻第1〜5号、1942年⑾ 前掲注⑽および本島知辰『月堂見聞集』巻之七『続日本随筆大成』別巻二、吉川弘文館、1982年、290〜293頁⑿ 林玲子『江戸問屋仲間の研究』お茶の水書房、1967年、66頁⒀ 大石慎三郎「正徳四年『大坂移出入商品表』について」『日本近世社会の市場構造』岩波書店、⒁ 前掲注⑽⒂ 安田篤生「江戸時代における光琳像の変遷について(上) 正徳〜宝暦」『愛知教育大学研究報告』第50輯、2001年⒃ 遠藤楽子「山本素軒筆十二ヶ月歌意図屏風の制作事情」『MUSEUM』597号、2005年⒄ 拙稿「定家詠十二ヶ月和歌花鳥図と乾山」(展覧会図録『乾山の芸術と光琳』NHKプロモーション、2007〜2008年)では、定家詠和歌と畠山匠作亭詩歌それぞれの作例の画風の違いから後者について公家のサロンでの鑑賞を想定したが、そうした公家風の瀟洒な画風もふくめ、その享受者は公家文化に憧れる大名家や高級商家がふさわしいかもしれない。⒅ リチャード・L・ウイルソン・小笠原佐江子「窯跡と遺跡における乾山焼」『日影町遺跡Ⅲ』都― 256 ―

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